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448#78
※全国で2番目にバス利用者が少ない 戦前には『山梨日日新聞』(以下は山日と表記)、『山梨毎日新聞』はじめ6紙が発行されていたが、第二次世界大戦中の新聞統制によって県内の諸紙は山日に統合される。戦後には数紙が創刊され、昭和40年代まで富士急行が大株主である『山梨時事新報』(山時)が山日と部数を競った。1969年(昭和44年)に富士急行が所有株式を売却すると山時は山日に吸収され、現在は、全国紙を除いて日刊紙は山日のみの状態となっている。全国紙は東京版が販売されており、県内ニュースを載せるページ(地方版・県版)を設けている新聞が多い。NHKのテレビ放送は1953年(昭和28年)に開始された。山梨の地理的条件のため当初は契約数は少なく、NHK甲府放送局が1959年(昭和34年)に中継送信所を設置して以降に普及した。民間放送ではラジオ山梨が1959年(昭和34年)12月に送信所を設置してテレビ局を開設し、山梨放送(YBS、NNN/NNS系列)が開局。1968年(昭和43年)にUHF(極超短波放送)電波が割り当てられると、免許申請は一本化されて「山梨中央テレビ」として取得し、翌1969年(昭和44年)5月には株式会社テレビ山梨(UTY、JNN系列)が発足。
山梨県
462#2
日本では一般的に京、洛と呼ばれ、古代から明治までの律令においては「皇都」、明治期から戦前にかけては「帝都」、戦後は「首都」と呼称することが多い。「帝都」の字句は幕末期の文書:船中八策に登場している。
首都
462#23
都市国家については、1つの都市が主権を持ち国家となっているため、国家と都市と首都が同義である。シンガポール、モナコがその事例であり、前者は首都シンガポール市がそのままシンガポールという国家、モナコは首都モナコ市がそのままモナコ公国という国家になっている。こうした国家では、地方自治体が存在しない。
首都
462#27
外国大使館は基本的に首都に置かれるが、イスラエルのように、承認に係る事情から外の都市に置かれる例もある。
首都
480#6
在学中から、飲食店での皿洗いやミニスカパブでホステスのアルバイトをしながら描き続けていた成人雑誌のカットが小学館の編集者八巻和弘の目に留まり、1988年『ちくろ幼稚園』(『ヤングサンデー』)でデビュー。1989年3月大学卒業。
西原理恵子
493#1
大阪帝国大学附属医学専門部[注 2] 在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。
手塚治虫
493#12
終戦後、学生である手塚は戦時中に描き溜めた長編の中から『幽霊男』(『メトロポリス』の原型)という長編を選んで描き直し、毎日新聞学芸部へ送った[24]。これは音沙汰無しに終わったが、その後、隣に住んでいた毎日新聞の印刷局に勤める女性からの紹介で、子供向けの『少国民新聞』(現在の毎日小学生新聞)学芸部の程野という人物に会い[25]、彼の依頼を受けて『少国民新聞』の大阪版に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を連載(1946年1月1日 - 3月31日)、この作品が手塚のデビュー作となった。この『マアチャン』はローカルながら人気があり、人形や駄菓子のキャラクターに使用されたという記録も残っている[26]。『マアチャン』に続けて4月から『京都日日新聞』に4コマ漫画『珍念と京ちゃん』を連載しており、これらと平行して4コマ形式の連載長編作品『AチャンB子チャン探検記』『火星から来た男』『ロストワールド』(後述するものとは別物)なども各紙に描かれているが、4コマ連載という形式に限界があり、後2者はどちらも中断に近い形で終わっている[26]。
手塚治虫
493#17
手塚は大阪で赤本漫画を描く傍ら、東京への持ち込みも行なっている。当初期待した講談社では断られたが、新生閣という出版社で持ち込みが成功し、ここでいくつか読み切りを描いた後、新創刊された雑誌『少年少女漫画と読み物』に1950年4月より『タイガー博士の珍旅行』を連載、これが手塚の最初の雑誌連載作品となった[39]。同年11月より雑誌『漫画少年』(学童社)にて『ジャングル大帝』の連載を開始、1951年には『鉄腕アトム』(1952年 - )の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載するなど多数の雑誌で連載を始め、この年には目ぼしい少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画が開始されることになった[40]。1953年には『少女クラブ』(講談社)にて『リボンの騎士』の連載を開始。宝塚歌劇やディズニーからの影響を受けたこの作品は、以後の少女雑誌における物語漫画の先駆けとなった[41]。1954年には『ジャングル大帝』の後を受けて『漫画少年』に『火の鳥』の連載を開始。『火の鳥』はその後幾度も中断しながら長年描き継がれた手塚のライフワークとなった。
手塚治虫
493#24
1959年、週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『少年マガジン』(講談社)および『少年サンデー』(小学館)が創刊され、それ以後月刊の少年誌は次第に姿を消していくことになった。この時、手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となった(ただし、『少年サンデー』初代編集長の豊田亀市は、契約料200-300万円(当時)を提示して専属契約を持ちかけたが、断られたと証言している[53]。)が、講談社からも誘いを受けて困惑し、結局『少年サンデー』創刊号には自身の手による『スリル博士』を連載、『少年マガジン』の方には連載13回分の下描きだけをして石森章太郎に『快傑ハリマオ』の連載をさせている[48]。同年、宝塚ホテルにて結婚式を挙げる。
手塚治虫
493#34
半蔵門病院の病室で、1989年(平成元年)2月9日午前10時50分死去。死に立ち会った松谷によるとこの「頼むから仕事をさせてくれ」が手塚の最後の言葉であったという。通夜は2月11日、東久留米市の自宅で[84]、葬儀は3月2日、東京都港区の青山葬儀所で手塚プロダクションの社葬として[85]、それぞれ営まれた。
手塚治虫
493#41
手塚治虫の最初期の作品である酒井七馬との共作による1946年の『新寶島』は戦後ストーリー漫画の原点とされ、本作を読んで影響を受けたり、漫画家を志した読者も多い。藤子不二雄[97]、石ノ森章太郎[98]、ちばてつや[99]、望月三起也[100]、楳図かずお、中沢啓治など。劇画を始めた辰巳ヨシヒロ[101]、桜井昌一[102]、佐藤まさあき[103] も衝撃を語っている。
手塚治虫
493#81
藤子不二雄の二人は、手塚治虫の「新寶島」に衝撃を受け漫画家を志した。彼らは学生時代に手塚のファンとして手塚にハガキを出し、その返事として「しっかりしたタッチで将来がたのしみです」との直筆のハガキを受け取った。そのハガキは手塚のキャラクターの絵と一緒に、文字が角度を変えながら中心に近づくように書かれており、ハガキをぐるぐる回しながら文字を読むという手塚らしい実にユニークなものであった。このハガキが、ますます彼らの漫画家への志に拍車をかける。藤子不二雄は当初、手塚にちなみ、「手塚不二雄」のペンネームで漫画を投稿する。しかし余りにも露骨なため、「手塚の足にも及ばない」という意味を込め「足塚不二雄」に変更した。高校生の頃、二人で手塚の実家に訪れている。その後藤子不二雄としてデビューし、手塚の住んでいた「トキワ荘14号室」に入れ替わりで入居して暮らすこととなる。手塚はお金のない二人のために敷金の肩代わりと、漫画を描くための机を残している。そのため、藤子不二雄の初期作品は手塚の机で描かれたものである[注 12]。憧れの手塚が住んでいた、トキワ荘14号室に住めたことについて藤子・F・不二雄は、「四畳半というものがこんなに広いものかと感動しました[143]」と語る。藤子不二雄Aも自身の漫画でトキワ荘14号室を宇宙のような壮大な情景で描いている。その後、たびたび手塚治虫の緊急アシスタントとして手塚の仕事を手伝っていた。藤子・F・不二雄は、生涯に渡って手塚を「最大の漫画の神様」と尊敬し続け、自伝や漫画の書き方の本で手塚を絶賛していた。藤子不二雄Aも同様に手塚を尊敬し、自伝漫画「まんが道」では手塚を最大の師として登場させ、「手塚治虫はふたりにとって神であった」「いや、日本中の漫画少年にとっても神であった」と頻繁に手塚を「神」と表現した。現在手塚が「漫画の神様」と称されるのは彼らの影響が大きい(それ以前は漫画の王様といわれてもいた)。藤子不二雄が漫画家25周年を迎えた際には手塚タッチのドラえもんとドラえもん風のヒョウタンツギを描いた色紙をプレゼントしている。その25周年記念パーティーは手塚が仕切り、二人を二次会まで連れて行っている[144]。手塚は藤子不二雄のスタジオに突然ひょっこり現れて「ハハハ、来たよ」と特に用事もないのにふらっと訪れることもあった[144]。また藤子不二雄Aが新宿の焼き鳥屋で飲んでいると、そのことを聞きつけた手塚がやってくることもあったという。手塚は藤子・F・不二雄と二人で「惑星ソラリス」などの映画を見ることもあった。手塚は藤子の本の寄稿で「オバケのQ太郎」のことを「おばけという概念をこれほどまでにキュートに、子どもの世界にひきずりおろして描いた作品は以前にないでしょう。アメリカには幽霊の子どもを主人公にしたキャスパーという例がありますが、これよりもずっととぼけていて性格づけがみごとです。」「キャラクターの描きやすさの点でも、まず、オバQ君にかなうものはありますまい。(日本に現在のようなキャラクター漫画が流行する前の発言)」と語っている[145]。手塚治虫の漫画「七色いんこ」では藤子のドラえもんが登場したり、「黄金のトランク」では主人公の名前が不二雄である。「どろろ」と「バンパイヤ」には「オバケのQ太郎」が登場。「ガチャボイ一代記」では、藤子・F・不二雄と藤子不二雄Aが手塚のアシスタントをする様子を手塚自身が描いている。手塚治虫漫画全集の「ジャングル大帝」のあとがきには、藤子不二雄の二人へアシスタントしてくれたことに対する、感謝の言葉と激励が書かれている。藤子の二人の結婚式の仲人は手塚が務めた。藤子・F・不二雄は、手塚が亡くなった時の追悼文で「高校生になっても先生のまんがを読み続け……、気がついてみると自分もまんが家になっていた」と語っている[146]。
手塚治虫
509#20
ウェブブラウザの歴史は1980年代末に遡り、それから様々な技術の基礎を築きあげた最初のウェブブラウザ、WorldWideWeb がティム・バーナーズ=リーによって1991年に公開された。このブラウザは既存および新たなソフトウェアとハードウェアの色々な技術とともに寄せ集められていた。なお、WorldWideWeb は後に Nexus へと改称されている。
ウェブブラウザ
509#21
テッド・ネルソンとダグラス・エンゲルバートはバーナーズ=リーのずっと前にハイパーテキストの概念を開発していた。この核となる部分は World Wide Web に合うのではないか、というエンゲルバートの提案にバーナーズ=リーは賛同した。 1993年にNCSA Mosaicが登場した。Mosaic は画像が扱える最初のウェブブラウザの一つであり、これによってウェブの利用者が激増するきっかけとなった。米国立スーパーコンピュータ応用研究所 (NCSA) の Mosaic チームのリーダーであったマーク・アンドリーセンはその後まもなくネットスケープを設立し、Mosaic を汲む Netscape Navigator を1994年にリリースした。このブラウザは瞬く間に世界中のもっとも主流なウェブブラウザとなり、最盛期には全てのウェブにおいて9割もの利用率を占めた。
ウェブブラウザ
512#4
その後は代表作として『コージ苑』、『かってにシロクマ』など。また、竹熊健太郎との合作『サルでも描けるまんが教室』は、漫画家の人生および漫画創作法自体をパロディ化した傑作となった。その後も、ギャグ漫画・ストーリー漫画で、従来の漫画家が描かなかった「極端な描写・物語」を追求し続けている。
相原コージ
525#0
荒木 飛呂彦(あらき ひろひこ、1960年6月7日 - )は、日本の漫画家。宮城県仙台市[1]若林区[2]出身。東北学院榴ケ岡高等学校卒、宮城教育大学中退、仙台デザイン専門学校卒。身長169.5cm、体重(2007年現在)61kg、血液型はB型。既婚者で二女の父。本名、荒木利之(あらき としゆき)。
荒木飛呂彦
525#1
1980年(昭和55年)、「武装ポーカー」でデビュー(本名名義[3])。代表作は『週刊少年ジャンプ』(集英社)1987年1・2号から連載開始された『ジョジョの奇妙な冒険』[1]。同作品は複数の部に分かれ、主人公や舞台を変えながら20年以上に渡って連載され続けており、シリーズ総計122巻(2018年7月現在)、発行部数は1億部(2015年12月時点)[4]。
荒木飛呂彦
525#2
中学時代に剣道部に所属[5]。幼少期から「ひとりの世界」に浸るのが好きで、早くから漫画も描いていた。当時は梶原一騎の漫画作品『巨人の星』(川崎のぼる画)、『あしたのジョー』(ちばてつや画)などを愛読[5]、また白土三平の忍者・歴史漫画『サスケ』と『カムイ伝』の理論的な作風に影響を受けた[6]。小説では江戸川乱歩や『シャーロック・ホームズ』シリーズをよく読んでいたという[5]。なお荒木には4つ下に双子の妹がおり、この2人の仲が良かったため、「家族の中で疎外感を抱いていたため、ひとりで何かを楽しむことが余計に好きになったのだと思う」とインタビューで語っている[5][6]。
荒木飛呂彦
525#4
16歳の時に同い年のゆでたまごが『週刊少年ジャンプ』でデビューしたことに焦りを感じ、高校3年の時に初投稿、以後何度か投稿を重ね、専門学校在学中の1980年(昭和55年)に「武装ポーカー」で第20回手塚賞[8]に準入選しデビュー。
荒木飛呂彦
525#5
デビュー後は、仙台に在住したまま『週刊少年ジャンプ』で『魔少年ビーティー』を執筆していた。上京後は『バオー来訪者』の短期連載を経て、1987年(昭和62年)より『ジョジョの奇妙な冒険』の連載を開始し、2003年(平成15年)までに6部の物語を執筆する長期連載となった。2004年(平成16年)に同誌にて『ジョジョ』のPart7にあたる『スティール・ボール・ラン』の連載を開始し、連載途中の2005年(平成17年)より月刊誌『ウルトラジャンプ』に移籍。『ジョジョ』シリーズは2010年(平成22年)には通算100巻を達成し、達成後の2011年(平成22年)に『スティール・ボール・ラン』を完結させた後、すぐさま『ジョジョ』のPart8である『ジョジョリオン』の連載を開始し現在に至る。
荒木飛呂彦
525#8
荒木は自身の絵柄についてルネッサンス美術、特にミケランジェロに影響を受けたと公言しており[12]、「ジョジョ立ち」と呼ばれる独特のポージングもイタリア美術が発想の元となっている。また『ヴォーグ』などのファッション雑誌が好きで[13]、1980年代のベルサーチやなどが『ジョジョ』のファッションのルーツだと語っている[5]。色は紫を好み[6]、カラーイラストでも多用される。絵柄についてはファッション・イラストレーターのアントニオ・ロペス(en:Antonio Lopez (illustrator))()やSF・ファンタジー画家のフランク・フラゼッタ、ヨーロッパの漫画家エンキ・ビラルやなどからの影響も指摘されている[12]。 また、絵の特徴やデザインはシンプルなほどよく、車田正美のような極限まで単純化された画面や物語が最高と語っている[14]。
荒木飛呂彦
525#13
荒木の代表作である『ジョジョの奇妙な冒険』は、それまで単純な『力比べ』だけだった少年誌のバトル漫画に心理的な駆け引きやトリックによる『頭脳戦』を導入することで新たな展開をもたらしたと評価されている[19][20]。特にPart3以降に登場する「スタンド」(様々な超能力をヴィジュアル化したキャラクター)の概念は、人物ごとに異なった能力で勝負する「能力バトル」という新形式を日本のバトル漫画全体に普及させた。これらのことから「現在のバトルマンガは全て『ジョジョ』の影響下にあると言っても過言ではない」とも評されている[21]。
荒木飛呂彦
525#21
1960年(昭和35年) - 宮城県仙台市に出生。 1980年(昭和55年) - 専門学校在学中に第20回手塚賞に本名で応募した「武装ポーカー」が準入選。 1981年(昭和56年) - 『週刊少年ジャンプ』に同作品が掲載されプロデビュー。 1982年(昭和57年) - 『魔少年ビーティー』で初連載。(1983年まで) 1984年(昭和59年) - 東京へ拠点を移し『バオー来訪者』連載開始。(1985年まで) 1985年(昭和60年) - 『ゴージャス☆アイリン』連載開始。(1986年まで) 1987年(昭和62年) - 『週刊少年ジャンプ』にて『ジョジョの奇妙な冒険』連載開始。1999年(平成11年)までに5部の物語を執筆。 2000年(平成12年) - 『ジョジョの奇妙な冒険Part6 ストーンオーシャン」を連載開始。この頃よりCDのジャケットやTシャツのデザインなど、イラストレーションの仕事も増える。 2003年(平成15年) - フランスのパリで初の個展『JOJO IN PARIS』開催。 2004年(平成16年) - 『週刊少年ジャンプ』にて『ジョジョ』のPart7にあたる『スティール・ボール・ラン』を連載開始。 2005年(平成17年) - 『スティール・ボール・ラン』が『ウルトラジャンプ』へ移籍。 2007年(平成19年) - アメリカの科学雑誌『セル』9月7日号の表紙絵を描き下ろす[29]。同誌に論文を掲載した瀬藤光利の依頼によるもので、研究グループが発見したタンパク質分解酵素「スクラッパー」をスタンド風に擬人化したイラストが掲載された。 2008年(平成20年) - 川端康成の小説『伊豆の踊子』(集英社文庫)の表紙画を手がける。 2009年(平成21年) - フランスの出版社・フュチュロポリスとルーヴル美術館との共同企画『BD(バンド・デシネ)プロジェクト』の一環として、自身初のフルカラー漫画作品『Rohan au Louvre(邦題:岸辺露伴 ルーヴルへ行く)』を執筆。本編公開に先駆け、ルーヴル美術館テーマ企画展:『小さなデッサン展-漫画の世界でルーヴルを』にて表紙案とイメージボードを展示[30]し、2010年(平成22年)に仏語版単行本を発売。日本では2010年(平成22年)に『ウルトラジャンプ』にて日本語版をモノクロ掲載、2011年(平成23年)に日本語版単行本化。 2011年(平成23年) - 3月11日、故郷の仙台市が東日本大震災で被災、公式サイトをオープン。『ウルトラジャンプ』にて『ジョジョの奇妙な冒険Part8 ジョジョリオン』を連載開始。ファッションブランド『GUCCI』のブランド設立90周年と自身の執筆30周年を記念して短編のSpur×Gucci×荒木飛呂彦コラボ作品『岸辺露伴 グッチへ行く』をファッション雑誌『SPUR』に掲載、グッチ店舗のウィンドディスプレイも手掛けた。また、達増拓也岩手県知事の発表した『東北復興平泉宣言』のイメージイラストを手がけた[1]。 2012年(平成24年) - ジョジョの奇妙な冒険の連載25周年を記念し原画展『ジョジョ展』を仙台と東京で開催、前年の『SPUR』表紙イラストが第3回雑誌大賞グランプリに選ばれた[31]。 2012年(平成24年) - 『ダ・ヴィンチ』8月号、『AERA』10月22日号の表紙を自らのポートレイトで飾った。 2016年(平成28年) - 第45回ベストドレッサー賞(学術・文化部門)受賞[32]。 2018年(平成30年) - 国立新美術館と大阪文化館・天保山で自身初の個展となる<b data-parsoid='{"dsr":[11728,11754,3,3]}'>荒木飛呂彦原画展「JOJO 冒険の波紋」を開催[33]
荒木飛呂彦
525#23
武装ポーカー(●1980年、週刊少年ジャンプ (WJ) ) - 第20回手塚賞準入選作。 アウトロー・マン(●1981年、WJ増刊) バージニアによろしく(●1982年、WJ増刊) 魔少年ビーティー【読切版】(●1982年、フレッシュジャンプ) 魔少年ビーティー(1983年、WJ) バオー来訪者(1984年 - 1985年、WJ) ゴージャス☆アイリン(●1985年 - 1986年、WJ増刊) ジョジョの奇妙な冒険(1987年 - 2003年、WJ) Part 1 ファントムブラッド(1987年) Part 2 戦闘潮流(1987年 - 1989年) Part 3 スターダストクルセイダース(1989年 - 1992年) Part 4 ダイヤモンドは砕けない(1992年 - 1995年) Part 5 黄金の風(1995年 - 1999年) Part 6 ストーンオーシャン(2000年 - 2003年) Part 7 スティール・ボール・ラン(2004年 - 2011年、WJ→ウルトラジャンプ (UJ) ) Part 8 ジョジョリオン(2011年 - 、UJ) 変人偏屈列伝(初期作画:鬼窪浩久、1989年 - 2003年、スーパージャンプ (SJ)・MANGAオールマン (MA)・UJ) 死刑執行中 脱獄進行中(○1994年・2008年(再録)、SJ) ドルチ 〜ダイ・ハード・ザ・キャット〜(○1996年、MA) 岸辺露伴は動かないシリーズ 岸辺露伴は動かない〜エピソード16:懺悔室〜(○・◎1997年、WJ) 岸辺露伴は動かない 〜エピソード2:六壁坂〜(◎2007年、ジャンプスクエア・2009年、ジャンプスクエア マスターピース(再録)) 岸辺露伴 グッチへ行く (◎2011年8月23日発売、集英社「SPUR」10月号・2012年「JOJOmenon」(再録)) - 岸辺露伴のアナザーストーリー・シリーズ。オールカラー読み切り短編作品。 岸辺露伴は動かない 〜エピソード5:富豪村〜(◎2012年、WJ) 岸辺露伴は動かない 〜エピソード6:密漁海岸〜(◎2013年、WJ) 望月家のお月見 岸辺露伴は動かない エピソード4(☆2014年、少年ジャンプ+) 岸辺露伴は動かない エピソード7 月曜日-天気雨(☆2015年、ジャンプスクエア) 岸辺露伴は動かない エピソード#9 D・N・A(☆2017年、別冊マーガレット) デッドマンズQ(○1999年、MA) 岸辺露伴 ルーヴルへ行く(2010年、UJ) - 『小さなデッサン展-漫画の世界でルーヴルを』に展示された漫画の再録。 徐倫、GUCCIで飛ぶ(☆2012年12月22日発売、集英社「SPUR」2月号) - GUCCI×JOJO 第二弾。オールカラー読み切り短編作品。
荒木飛呂彦
525#25
ジャンプ・コミックス 魔少年ビーティー(全1巻、1984年) バオー来訪者(全2巻、1985年) ジョジョの奇妙な冒険(全63巻、1987年 - 1999年) ジョジョの奇妙な冒険 Part 6 ストーンオーシャン(全17巻、2000年 - 2003年) スティール・ボール・ラン(全24巻、2004年 - 2011年) ジョジョリオン(既刊18巻、2011年 - ) 岸辺露伴は動かない(既刊2巻、2013年 - ) ジャンプ スーパー コミックス(創美社発行、集英社発売) 荒木飛呂彦短編集 ゴージャス☆アイリン(全1巻、1987年) SCオールマン愛蔵版→YJC-UJ愛蔵版 死刑執行中脱獄進行中(全1巻、1999年) YJC-UJ愛蔵版 ゴージャス☆アイリン(全1巻、2004年) 変人偏屈列伝(鬼窪浩久との共著、全1巻、2004年) UJ愛蔵版 岸辺露伴 ルーヴルへ行く(全1巻、2011年) 集英社コミックス愛蔵版 函装版ジョジョの奇妙な冒険・JoJonium(第1期・全17巻、2013年 - 2015年) 集英社文庫 魔少年ビーティー(全1巻、2000年) バオー来訪者(全1巻、2000年) ジョジョの奇妙な冒険(既刊50巻、2002年 - ) オインゴとボインゴ兄弟 大冒険(全1巻、2002年) 死刑執行中脱獄進行中(全1巻、2011年) ゴージャス☆アイリン(全1巻、2011年) 変人偏屈列伝(鬼窪浩久との共著、全1巻、2012年) SHUEISHA JUMP REMIX ジョジョの奇妙な冒険(既刊64巻、2001年 - ) 魔少年ビーティー対バオー来訪者(全1巻、2004年) ゴージャス☆アイリン(全1巻、2007年) ジョジョの奇妙な冒険 Part 6 ストーンオーシャン(全10巻、2009年) 死刑執行中脱獄進行中(全1巻、2012年) 集英社新書 荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論(全1巻、2011年) ジョジョの奇妙な名言集 Part1-3(解説 中条省平、2012年) ジョジョの奇妙な名言集 Part4-8(2012年) 荒木飛呂彦の超偏愛! 映画の掟(全1巻、2013年) 荒木飛呂彦の漫画術(全1巻、2015年)
荒木飛呂彦
525#26
JoJo6251 荒木飛呂彦の世界(1993年) JOJO A-GO!GO!(2000年) JOJOVELLER(2013年)
荒木飛呂彦
537#0
鉄道(てつどう、 )とは、等間隔に設置された2本の鉄製の軌条(レール)またはそれに代わる物を案内路として車輪を有する車両が走行する交通機関である。線路・停車場などの施設、旅客や貨物を輸送する列車、運行管理や信号保安まで様々な要素で構成される一連の体系である。
鉄道
537#2
なお、本項では鉄製レールの案内路を有する鉄道について解説する。
鉄道
537#3
日本語の「鉄道」という交通機関を示す語は福沢諭吉によるものとされている(ただし、軌条という意味での「鉄道」は福沢以前に江木鰐水や横井小楠による使用例がある)。英語ではrailroad(アメリカ)またはrailway(イギリス)といい、案内路の材質を問わないが、ドイツ語の"Eisenbahn"、フランス語の"Chemin de fer"、中国語の"鉄路"などを始め、数多くの言語で「鉄の道(路)」という表現をするように、鉄道はもともと鉄製レールの案内路を有するシステムであった。この形態は、鉄道事業法に基く国土交通省令である鉄道事業法施行規則において、普通鉄道と分類され、新幹線、地下鉄等を含む多くの鉄道がこの形態である。また、英語でtramwayと呼ばれる路面電車も同じ形態であるが、日本の法律では軌道法により管轄され、鉄道ではなく軌道と区分される。しかし、例外が多く、鉄道と軌道の境界は曖昧である。
鉄道
537#15
軌道は2本のレールを枕木の上に平行に敷設したものであり、システムによっては3本以上のレールを用いる。レールと枕木はバラストと呼ばれる砂利やコンクリート製の道床によって支えられる。特に、道床に砂利を用いたものをバラスト軌道と呼ぶ。コンクリート製のものでは、道床と枕木の機能が一体化したスラブ軌道や、コンクリート製の基礎にレールを直結し枕木を省略した形態も存在する。
鉄道
543#3
ニューオーリンズが発祥の地とされており、現在でもその語源ははっきりしない。20世紀初頭には、コルネット奏者の「アフロアメリカン」、バディ・ボールデンがニューオーリンズで人気を博し、「ジャズの父」と呼ばれる場合もあるが、バディは1907年に活動停止し、本人による録音は残されていない。
ジャズ
546#0
ヒップホップ (hip hop) は、1970年代のアメリカ合衆国ニューヨークのブロンクス区で、アフロ・アメリカンやカリビアン・アメリカン、ヒスパニック系の住民のコミュニティで行われていたブロックパーティから生まれた文化。
ヒップホップ
546#1
80年代には、ヒップホップには三大要素があると言われていた。ラップ、ブレイクダンス、グラフィティがその構成要素である。現在ではDJプレイを加えた四大要素と言われている。ヒップはかっこいい、ホップは跳躍するという意味で、アフリカ・バンバータは、音楽やダンスのみならず、ファッションやアートを含めた黒人の創造性文化を「黒人の弾ける文化」という意味を込めてヒップホップと呼称した。これは1974年11月のことだったとされる。このことから、11月を「Hip Hop History Month」として祝う習慣がある。
ヒップホップ
546#6
これにアフリカ・バンバータが加えた「知識」までを五大要素、さらにKRS・ワンが提唱した「ビートボックス」とストリート文化「言語」、「服装」、「起業精神」を含むと九大要素と呼ばれる。その創始には諸説が有るが、一般的に1970年代初期に生まれ、クール・ハーク(ブレイクビーツの発明者)、グランドマスター・フラッシュ(スクラッチ技術を普及)、アフリカ・バンバータ(ヒップホップという言葉の生みの親)の3大DJたちの活躍によって、それまでのコミュニティ・パーティを超えた音楽として広がり始めた。
ヒップホップ
555#1
1974年、『立ち読み厳禁』が第7回手塚賞で佳作となり、同作品でデビュー(『週刊少年ジャンプ』)。 以後、『警察犬物語』『北の土龍』『蒼き炎』などの作品を次々に発表し、骨太な中にも暖かみのある作風で多くの読者の支持を集める。
石川サブロウ
558#1
愛知県名古屋市生まれ。華僑を母に持つ。1976年、父の経営する会社が倒産。名古屋芸術大学卒業。1978年に上京、手塚プロダクションにて手塚治虫に1年ほど師事。ブラック・ジャックの作画などを担当した。デビュー作は第2回マンガ少年新人賞佳作入選の『とろりんなんぼく』(1979年)。青年漫画作品を中心に執筆し、『ビッグコミックスピリッツ』で連載した『キスより簡単』はテレビドラマ化・映画化もされた。1988年にはTBSラジオの深夜放送『スーパーギャング』のパーソナリティをつとめるなど多彩な活動を行っていたが、出産を機に漫画家を休業し、以降はエッセイストやコメンテーターとしての活動が主となる。第3回文化庁メディア芸術祭大賞を受賞。
石坂啓
561#0
板垣 恵介(いたがき けいすけ、1957年4月4日 - )は、日本の漫画家。北海道釧路市出身。本名・板垣博之(いたがき ひろゆき)。主に格闘技を題材とした作品を得意としている。座右の銘は「不自然主義」。
板垣恵介
561#2
その後、B型肝炎を患って自衛隊を除隊し1年近い入院生活を送った後、職を転々としながらの生活を送っていた。1987年、格闘技と並ぶ少年時代からの趣味だったイラストの腕を生かし漫画家として身を立てようと、小池一夫主催の「劇画村塾」に入塾(東京第6期生)。小池原作の漫画『傷追い人』の主人公・茨城圭介と自身の妻・惠子の名前からペンネームを取って「板垣恵介」とし[1]、1989年、『メイキャッパー』でデビュー。1991年、『週刊少年チャンピオン』に『グラップラー刃牙』の連載を開始。その後シリーズ第2部『バキ』、第3部『範馬刃牙』、第4部『刃牙道』を経て、『週刊少年チャンピオン』2018年45号より第5部『バキ道』を連載している。
板垣恵介
566#1
主に集英社の『週刊少年ジャンプ』、『月刊少年ジャンプ』(現在は月刊少年ジャンプの後継誌の『ジャンプSQ』)で執筆している。代表作は漫画原作者の三条陸とのコンビによる『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』、『冒険王ビィト』。
稲田浩司
566#2
1985年、「ルージュ・マジック」でデビュー。1987年、「クソッタレだぜェ!!」(『週刊少年ジャンプ』52号掲載)で本誌デビュー。1989年45号より『週刊少年ジャンプ』にて「DRAGON QUEST -ダイの大冒険-」(原作:三条陸、監修:堀井雄二)を連載、1996年52号で終了。1998年、『赤マルジャンプ』で「イルカ岩で…」を掲載。
稲田浩司
574#1
高校時代の1970年(昭和45年)に『週刊少年ジャンプ』(集英社)の第5回新人漫画賞で「小さな命」が入選、審査員である本宮ひろ志から「彼の作品は生命が感じられるね」と評価された。この作品が翌1971年の同誌正月号に掲載され、デビューを果たす。
いわしげ孝
577#0
スペースシャトル()は、かつてアメリカ航空宇宙局 (NASA) が1981年から2011年にかけて135回打ち上げていた、再使用をコンセプトに含んだ有人宇宙船である。
スペースシャトル
577#3
スペースシャトルは宇宙輸送システム (Space Transportation System, STS) あるいはスペースシャトル計画の一環としてもちいられた。STSの開発とシャトルの飛行は、基本的にアメリカの資金によって行われた。主な使用目的は、NASAのおかれた様々な政治的状況や起こしてしまったシャトルの事故も影響して、およそ10年ごとに大きく変遷してきた[1]が、数々の人工衛星や宇宙探査機の打ち上げ、宇宙空間における科学実験、国際宇宙ステーション (International Space Station, ISS) の建設などである。なおシャトルはNASAによってだけでなく、米国国防総省、また欧州宇宙機関、ドイツ等の軌道上実験にも使用された。
スペースシャトル
577#4
シャトルは再使用型宇宙往還機であり、軌道船 (Orbitor Vehicle, OV)、外部燃料タンク (External Tank, ET)、固体燃料補助ロケット (Solid Rocket Booster, SRB) の三つの部分によって構成されている[2]。ETとSRBは上昇中に切り離され、軌道船 (OV) のみが地球周回軌道に到達する。発射時には機体は通常のロケットと同じように垂直に打ち上げられるが、軌道船は水平に滑空して帰還・着陸し、再使用のために整備された。SRBはパラシュートで海に降下し、回収船で回収されて整備した後、推進剤を再充填して再利用された。
スペースシャトル
577#7
発射時のシャトルの構成は、おおまかに
スペースシャトル
577#9
の3つの部分から構成されていた。なお、上記に加えて、STSのために開発された、PAMとIUSと呼ばれる人工衛星打上げ用の2種類の固体ロケットを用いれば、搭載物をさらに高い軌道に運ぶこともできた。なお、シャトルには全体でおよそ250万個もの部品が使われており、人間がこれまでに製造した中で最も複雑な機械であると言われている[5]。 (→#構造・メカニズム・諸元)
スペースシャトル
577#10
シャトルは通常のロケットと同じように、発射台からは垂直に離陸する。その際の推力を生むのは2本のSRBおよび、(軌道船の後部に装着している)3基のメイン・エンジン (Space Shuttle Main Engine, SSME) であり、SSMEの推進剤(液体水素と液体酸素)は外部燃料タンクから供給される。上昇の手順はおおまかに、
スペースシャトル
577#18
「スペースシャトル」という言葉は、一般には軌道船(オービタ)の単体を指していることもある。シャトル(往復を繰り返すもの)という表現に合致しているのは基本的にオービタ部分であるし、形状という点でも、「シャトル」という用語の源となっている織物のシャトルと形が類似し連想させるのはオービタ単体であるからである。ただし技術的な観点、つまり宇宙飛行システム、飛行に必要な技術的な要素、という意味では、軌道船以外にも外部燃料タンク・固体燃料補助ロケットが結合されて、はじめてシャトルは完成状態となり飛行可能となるので、NASAのエンジニアなどは3つが合体した状態を「スペースシャトル」と呼ぶ。そして、紛らわしさを避けるために「オービタ」「SRB」「ET」などの呼称を用いて呼び分けている。
スペースシャトル
577#21
シャトルの設計と製造は1970年代初頭に始まったが、その概念はそれより20年も前、1960年代のアポロ計画よりも早い段階に存在していた[7][8]。宇宙から宇宙船を水平に着陸させるという構想は1954年に国立航空諮問委員会(NACA)が描いていたもので[8]、それは後にX-15航空工学実験調査機として実現することになった。NACAに対してこの提案を行ったのは、ヴァルター・ドルンベルガーである[8]。
スペースシャトル
577#26
1969年、ニクソン大統領はスペースシャトル計画を進行させることを正式に決定した[12]。
スペースシャトル
577#28
スペースシャトルは、再使用することを目的に設計された宇宙船としては初めてのものである。シャトルは様々な搭載物を低軌道に運び、ISS(国際宇宙ステーション)の人員を交代させることができ、また軌道船は地球を周回する人工衛星その他の物体を回収し地上に持ち帰ることもできるように設計された。各軌道船は「100回の飛行もしくは10年間の使用に耐えられるように」との考えで設計されたが、後にその期間は延長された。STS(宇宙輸送システム)の設計責任者は、マーキュリー計画、ジェミニ計画、アポロ計画などでも宇宙船の設計を担当したである。軌道船の大きさや形状を決定する際の最も重要な要素となったのは、当時 計画されていた商業衛星や秘密衛星の最大のサイズのものを搭載できるようにすることと、極軌道から一周回で離脱するという空軍の秘密計画に対応できるような飛行範囲を持っていることである。また衛星を宇宙空間に配置するための高い搭載能力が欲しいという国防総省の要求、および再使用できる機器を持つ宇宙船を開発することによって宇宙開発予算を削減したいというニクソン政権の要求の双方に応えるため、固体燃料補助ロケットと使い捨て型の燃料タンクの併用という方式が選択された。
スペースシャトル
577#31
飛行可能な機体は6機製造された。初号機エンタープライズは宇宙に行けるようには作られてはおらず、もっぱら滑空試験のためのみに使用された。実用化されたのは、コロンビア、チャレンジャー、ディスカバリー、アトランティス、エンデバーの5機である。当初はエンタープライズも進入着陸試験が終了した後に実用機として改造される予定だったが、構造試験のために製造されたSTA-099をチャレンジャー (OV-099) に改造したほうが安上がりだと判断された。チャレンジャーは1986年、発射から73秒後に爆発事故を起こして機体が失われたため、機体構造の予備品として残っていたものを集めて新たにエンデバーが製作された。コロンビアは2003年に空中分解事故を起こして消滅した。
スペースシャトル
577#46
固体燃料補助ロケット (SRB) は2基合計で発射時に必要とされる推力の83%、約1,250万ニュートン(1,276.8トン)を発生し[19]、打上げから2分後、高度約15万フィート(46km)に達したところで切り離され、パラシュートで海に着水して回収される[20]。外殻は厚さ13mmの鋼鉄でできている[21]。SRBは何度も再使用されるもので、一例を挙げれば2009年に試験発射されたアレスI-Xロケットは、過去48回のシャトルの飛行で使用されたSRBの部品を寄せ集めて作られたものであり、その中には1981年の初飛行 (STS-1) で使われたものも含まれていた[22]。
スペースシャトル
577#57
シャトルは1970年代に開発された宇宙船[28]であるため、その当時から安全面における性能や信頼性を向上させるべく多くの改良や改造が施されてきた。 内部構造のほとんどは初期に設計されたものとそれほど変わってはいないが、アビオニクス(飛行用電子機器)は大きく変貌した。たとえばコンピューターのアップグレード(性能向上)に関して言えば、初期の頃のアナログ式のメーター類は廃止され、最新型のエアバスA380やボーイング777に使われているような、グラスコックピットと呼ばれるフルカラーの液晶表示板に改められた。HP-41Cのようなプログラム入力可能な電卓も、依然として使われている。ISS(国際宇宙ステーション)の登場により、ISSに補給物資を届ける飛行でより多くの貨物をミッドデッキに搭載できるよう、内部エアロックは外部エアロックに置き換えられた。外部エアロックの上部には、ISSとのドッキングに使うロシアのアンドロジナスドッキング機構が使われた。
スペースシャトル
577#67
全長:37.237m 全幅:23.79m 全高:17.86m 空虚重量:78,000kg[33] 離陸時総重量:111,000kg 最大着陸重量:100,000kg 主エンジン:ロケットダイン社製ブロックII-SSME3基。1基あたり海面推力1.752MN(178トン、104%推力発生時) 最大搭載量:25,060kg 貨物室寸法:4.6m×18.0m 運用高度:190〜960km(100〜520海里) 最大速度:秒速7.743km(時速27,870km) 軌道範囲:2,009km(1.085海里) 定員:飛行によって異なる。初期の頃は最小人員の2名で飛行したが、後の多くの飛行では5名になり、その後7名(船長、パイロット、数人の搭乗運用技術者、まれに航空機関士(フライトエンジニア))で構成するのが一般的になった。STS-61-AとSTS-71の2回の飛行では8名が搭乗した。STS-3xxと呼ばれる緊急救助飛行では、11名(4人乗りで打ち上げて、7人を移乗)を搭乗できるよう検討されていた。
スペースシャトル
577#69
全長:46.9m 直径:8.4m 燃料容量:2,025m3 空虚重量:26,535kg 発射時重量:756,000kg
スペースシャトル
577#79
発射10秒前(Tマイナス10)、SSME(メイン・エンジン)のノズル内に停滞している水素ガスを燃焼させて除去するために、ノズルの下で電気火花が飛ばされはじめる。エンジン周辺にこれらのガスが残っていると、点火する過程で搭載した検知機が異常を感知して、異常な加圧を招いたり爆発したりする可能性がある。またこの時、SSMEのターボ・ポンプが作動して燃焼室内に液体酸素や液体水素を供給しはじめる。この間、軌道船の4台のコンピューターは相互に指令を交わし、点火に必要なすべての動作を制御する。
スペースシャトル
577#80
発射6.6秒前(Tマイナス6.6)、SSMEの点火が始まる。点火指令は軌道船のGPC(汎用コンピューター)を経由して、3番エンジン(右側)、2番エンジン(左側)、1番エンジン(中央)の順に120ミリ秒の間隔を置いて送られる。またGPCはSSMEの推力を90%にまで到達させると同時に、ノズルの向きを所定の位置に固定する[41]。エンジンに点火されると、騒音抑制装置の水が蒸発して大量の水蒸気となり、南側に向かって噴出される。3基のSSMEの推力はそれから3秒以内に100%に達しなければならず、もしそれが実現しなかった場合はGPCがエンジンを緊急停止させる。逆に正常に推力が発生されていることが確認されれば、SRBを発射台に固定している8本の爆発ボルトが吹き飛ばされ、SRBに点火される。この時間こそが「Tマイナス0」と規定されている発射の瞬間であり、この直後に機体は上昇を開始する。そしてSRBは、いったん点火されたら燃料をすべて消費するまで燃焼を停止することはできない[42]。SRBの排気ガスは北側に向かって掘られた火炎坑に沿って音速に近い速度で噴出され、しばしば衝撃波を発生させる原因となる。GPCは、4台の汎用コンピューターに設定された「発射手順制御装置(Master Events Controller)」と呼ばれるプログラムを介して点火の手順を実行する。上昇中に様々な異常事態が発生したときの緊急対応手順(中止方法)は、広範囲なものが用意されている。その大部分を占めるのは最も複雑で大きな負荷がかかるSSMEに関するもので、SRBが原因でチャレンジャー号爆発事故が発生した後には、緊急対応手順はより拡充されたものになった。
スペースシャトル
577#87
軌道に乗ると、シャトルは様々な、しばしば相互に関連した任務をこなす。1980年代から90年代にかけては、NASAとヨーロッパ宇宙機関が共同開発した宇宙実験室 (Spacelab) などを含む宇宙科学計画や、多種多様な衛星や科学探査機の軌道投入に使用されてきた。90年代から2000年代にかけては衛星打上げの任務は減少し、計画の焦点はもっぱら宇宙ステーションの建設に移った。ほとんどの飛行は数日から2週間程度で終了するが、軌道滞在期間延長機器 (Extended Duration Orbiter) を搭載したり国際宇宙ステーションにドッキングすれば、滞在期間をさらに延長することもできる。
スペースシャトル
596#6
ウルトラ漫画の連載後は「人間を描きたい」と思うようになり、1976年から『コロコロコミック』でプロ野球漫画『リトル巨人くん』の連載を開始するが、これも同誌のみならず『小学館の学習雑誌』でも連載され、単行本15巻を数えるヒット作となる。そのほか、1979年から前述の『巨人くん』に引き続いて『コロコロコミック』に『燃えろ!クロパン』、『週刊少年サンデー』に連載した『番外甲子園』や『冒険王』連載の『ひょうたん』、『燃えよ甲子園!鷲と鷹』といった野球漫画を描いている。
内山まもる
597#3
代表作は1996年から2005年まで『LaLa』などで連載された『オコジョさん』シリーズ。この作品はアニメ化され、『しあわせソウのオコジョさん』のタイトルで2001年10月よりテレビ東京系にて放映(全51話)された。
宇野亜由美
599#3
1936年9月3日、和歌山県伊都郡高野町に生まれる。戸籍上では9月25日生まれだが、これは母・市恵の誕生日4月25日(1907年)の日に合わせて登録したものだという。本籍地は奈良県五條市だが、父方は一族全部が教員という家系であり、父・公雄も小学校教員をしていたため、幼少期は奈良県の山間部の僻村を転々とした。高野町で生まれたのは、出産の便宜のため。なお、父は囲碁が好きで囲碁大会に奈良県代表としてしばしば出場し、高島忠夫の父とは囲碁友達だった。尚、楳図家の祖先については、(かずおの)曽祖父より前の世代の親族が奈良県外から来たらしいということしか分かっていない。
楳図かずお
602#4
代表作に、デビュー作が連載化された、妖怪に似た不思議な生命体「蟲」(むし)とそれを知る専門家「蟲師」を描いた『蟲師』がある。2007年3月24日には監督大友克洋・主演オダギリジョーによる実写映画版が公開。
漆原友紀
604#3
アシスタントの傍ら描いた習作『Don't Give Up』が『コミックモーニング』編集部の目に止まり、1984年、「BE FREE!」(『モーニング』)でデビュー。その後『まじかる☆タルるートくん』を始めとする少年誌向けのギャグ漫画や、『東京大学物語』『GOLDEN BOY』などの青年誌向けのストーリー漫画まで幅広い分野で執筆し、作品がアニメ化されるなど、立て続けにヒット作を生み出す。
江川達也
604#4
21世紀に入ってからは、ネームバリューが高い作品(『源氏物語』、『日露戦争物語』、『家畜人ヤプー』など)を漫画化。また、携帯サイトや新雑誌などのニッチな場での漫画作品の発表を行う。
江川達也
605#5
1977年にヤングジャンプ賞入選作である『恐るべき子どもたち』で「週刊少年ジャンプ」誌上においてデビューを飾り、同年連載デビュー作である『すすめ!!パイレーツ』の連載を開始する。質の高いギャグによってデビュー作から絶大な人気を集め、当時「週刊少年チャンピオン」で人気を誇っていた『マカロニほうれん荘』の鴨川つばめと並び称される事となる。なお『パイレーツ』の後期より扉絵の構図などにイラストレーションとして見せる為の工夫が見られ始める。その後『ひのまる劇場』の連載を挟み、1981年より自身の最大のヒット作となる『ストップ!! ひばりくん!』の連載を開始する。
江口寿史
607#4
2007年4月より放送されたTVアニメ『神曲奏界ポリフォニカ』では、初のアニメの脚本を手掛けた。
大迫純一
608#0
大島 司(おおしま つかさ、本名:1970年1月30日 - )は、日本の漫画家。静岡県掛川市出身。掛川市ふるさと親善大使。掛川東高校卒業。血液型はO型。代表作はデビュー作でもある『シュート!』シリーズで、1994年に第18回講談社漫画賞を受賞。大島は「『シュート!』は大島司を確立させた作品」と語っている。
大島司
609#0
大島 やすいち(おおしま やすいち、本名:大島 矢須一(読み同じ)、1954年3月24日 - )は、日本の漫画家。京都府京都市出身。平安高等学校卒業。東京都練馬区在住。男性。
大島やすいち
610#3
1979年、初の単行本となる自選作品集『ショートピース』刊行。このころより『マンガ奇想天外』『コミックアゲイン』などのSF雑誌・マイナー雑誌に寄稿しニューウェーブの作家と目されるようになる。1980年、『アクションデラックス』に『童夢』(-1981年)、『漫画アクション』に『気分はもう戦争』(-1981年、原作:矢作俊彦)を連載。1982年、『週刊ヤングマガジン』にて『AKIRA』(-1993年)の連載を開始し、この作品で一気にメジャー作家となる。
大友克洋
624#0
尾瀬 あきら(おぜ あきら、1947年7月26日 - )は、日本の漫画家。京都府京都市出身。別名松本めぐむ。
尾瀬あきら
628#2
1980年、故郷の小諸市を舞台とした青春ラブコメディ『すくらっぷ・ブック』で連載デビューする。この作品は前3作の短編から『春雨みら〜じゅ』の柏木晴(かしわぎ はる)を主人公とし、これら3作全ての登場人物を含めた「市立芦ノ原中学校」での学園生活(2学年進級から中学校卒業まで)を描くというもので、一躍人気を獲得する。
小山田いく
633#0
一節切(ひとよぎり)は、日本の伝統楽器。尺八の前身ともいわれる真竹製の縦笛で、節が一つだけあるのがその名前の由来である。
一節切
633#1
尺八が竹の根本部分を用いるのに対し、一節切は幹の中間部を用いるため、尺八に比べて細径・薄肉である。全長は一尺一寸一分(約34cm)で、尺八と同じように、前面に四孔、裏側に一孔の計五つの手孔がある。音域は尺八よりも狭く、約1オクターヴ半ほどである。
一節切
638#0
クセノポン(クセノポーン、、、紀元前427年?-紀元前355年?)は、古代ギリシア・アテナイの軍人、哲学者、著述家。アテナイの騎士階級の出身で、ソクラテスの弟子(友人)の1人でもあった。クセノフォンとも。
クセノポン
638#3
青年時代、アテナイの町を歩いていると、ソクラテスがやってきて、杖でクセノポンの行く手を阻んだ。ソクラテスは、青年クセノポンに尋ねる。「○○を手に入れるには、どこに行けばよいか知っているか?」。クセノポンが答えると、ソクラテスは畳み掛けるように、さまざまな食料品についてこの質問を繰り返した。クセノポンがいちいちそれに答えると、最後にソクラテスはこう言った。「では、立派な人になるためには、どこに行けばよいか知っているか?」。クセノポンが答えられないでいると、ソクラテスはこう言った。「では、私のところに来て、勉強しなさい」。クセノポンは、この時以降、ソクラテスの弟子になったという。
クセノポン
640#2
エピクロスはアテナイの植民地であったサモス島に、紀元前341年に生まれた。エピクロスの両親は、アテナイ人入植者であり、父は教師であったが、家族の生活は貧しかった。
エピクロス
640#4
2年のアテナイ滞在後、エピクロスは家族のもとに戻るが、サモス島のアテナイ人入植者は、アレクサンドロス大王の後継者ペルディッカスによって弾圧され、対岸の小アジアのコロポンに避難していた。コロポンの家族と合流した後、デモクリトス派の哲学者ナウシパネスの門下で学んだと思われる。
エピクロス
643#6
プライベートではプロ野球球団・阪神タイガースのファンであり、『ROOKIES』の登場人物名は阪神タイガースの選手名から取られている。特にホームラン王・田淵幸一の大ファンである。2014年には阪神とコラボレーションを行い、広告を展開するなどした。なお、ドラマ化に当たって登場人物名を全て巨人選手へ変更する計画が打診されたが、森田はこれを強く断っている。
森田まさのり
645#5
その著作の難解さと厭世観から「暗い哲学者」、あるいは、「泣く哲学者」と呼ばれる。また、ヘーゲルなどの思想の源流として、弁証法の始まりを担う人としても考えられている。
ヘラクレイトス
646#3
さいとう・たかをのアシスタントを経て、貸本漫画界で活躍する。1965年、『週刊少年サンデー』連載『アタック拳』で一般漫画誌に活躍の舞台を移す。その後、『週刊少年マガジン』に連載した梶原一騎原作の『巨人の星』が大ヒットし、国民的知名度を得た。
川崎のぼる
649#4
小学校卒業間近頃 - 当時ブームだったプラモデルと戦記漫画、そしてクラスメートから借りた手塚治虫監修の『マンガのかきかた』(秋田書店)に触発され、戦記漫画から描き始める。戦闘機をうまく描く人としてあこがれたのは、松本零士や小松崎茂。小松崎が描いていた「少年ブック」にも戦闘機のイラストを投稿していた。 静岡県立富士高等学校在籍時代 - 「マンガ研究会ミュータント・プロ」に加入。『墨汁三滴』(石ノ森の肉筆回覧誌『墨汁一滴』を踏襲したもの)で活動[1]。 1969年 - 漫画家になることを決意し、卒業後上京。江波じょうじのアシスタントを半年務める。その後は『墨汁三滴』の知り合いである細井雄二の母の家に居候、マンガ専門の編集プロダクションを1年(人気漫画家の漫画原稿を見て参考にしたいという)、さらに従兄弟が経営する芸能事務所の手伝いを経て、石森プロに入り石ノ森章太郎に師事。『さるとびエッちゃん』のキャラクター商品の絵描きの仕事などを手伝う[1]。 1972年 - 『テレビマガジン』(講談社)にて『仮面ライダー』(原作 石ノ森章太郎)でデビューし、少年漫画を中心に活発な執筆活動を行う。 1978年 - 『ゲームセンターあらし』を『コロコロコミック』(小学館)にて連載開始。小中学生を中心に爆発的人気となった。 1983年 - NECの低価格ホビー用パソコンPC-6001を題材にしたパソコンの紹介・入門漫画、『こんにちはマイコン』、『マイコン電児ラン』の2作品を発表。当時の『コロコロコミック』読者の少年達に多くの影響を与えたと言われている。『あらし』『こんにちはマイコン』の両作品で「小学館漫画賞児童漫画部門」を受賞[1]。そのかたわらモータースポーツに関心をもち、パソコン通信を通じて内外の情報を発信する。 1987年 - パソコン通信サービスのニフティサーブの「モータースポーツ・フォーラム」初代システムオペレーターに就任、1992年退任。 1994年 - 『漆黒の独立航空隊』で小説家デビュー。以後も架空戦記ものや、モータースポーツを題材とした小説を発表し、活動の比重を小説に移している。 2003年 - 長年のモータースポーツ界への貢献を評され、日本自動車工業会「東京モーターショー2003 モータースポーツ大賞」を受賞。 学問を究めたいということで、早稲田大学人間科学部eスクール(インターネットによる通信制課程)人間情報科学科に入学(インストラクショナルデザイン専攻)。2011年3月、早稲田大学大学院人間科学研究科修士課程を修了。4月からeスクールの教育コーチで後進の指導にも当たる。 2012年4月から、京都精華大学マンガ学部マンガプロデュース学科の非常勤講師を務め、翌2013年4月から、マンガ学部キャラクターデザインコース常勤教員に就任。
すがやみつる
650#2
高校在学中に自宅近くのグラウンドで草野球を観戦していたところ、一方のチームの監督が漫画家の島田啓三であることに気づく。つのだはベンチに押しかけ自作の漫画原稿を島田に見せて無理やり論評を聞き、これをきっかけに師事することとなる。昭和30年(1955年)、『漫画少年』に「新・桃太郎」が掲載され漫画家デビュー。この作品はわずか3ページほどの短編であるが、師である島田から何度も書き直しを命じられ、苦心の末投稿を許されて掲載されたものだという。
つのだじろう
651#1
1980年(昭和55年)に『週刊少年ジャンプ』(集英社)20号に掲載された『おれは男だ!』でデビューし、翌1981年(昭和56年)より開始された『キャッツ♥アイ』で連載デビュー。主に『週刊少年ジャンプ』を始めとした集英社の雑誌で活躍。その後2000年(平成12年)に堀江信彦らと共にコアミックスを設立し、同社が編集を行う雑誌に活動の場を移している。
北条司
651#3
建設会社勤務の父親と専業主婦の母親の間の次男として、1959年(昭和34年)福岡県小倉市に生まれ、小学校からは北九州市内の八幡で過ごす。市立泉台小学校・市立高見中学校・私立九州工業高校・九州産業大学と進学し、高校までを北九州市内で、漫画家として上京するまでを福岡県内で過ごす。
北条司
651#13
「F.COMPO」の連載を続ける中、2000年(平成12年)には堀江信彦・原哲夫・次原隆二・神谷明・根岸忠らと共に、株式会社コアミックスを設立。翌年同社編集の新雑誌を創刊する準備に忙しくなった事から、「F.COMPO」の連載を終了する。そして2001年(平成13年)5月に『週刊コミックバンチ』(新潮社発行)を創刊し、創刊号より「エンジェル・ハート」の連載を開始する。2004年(平成16年)にはコアミックスの関連会社として著作権管理等を業務として設立された株式会社ノース・スターズ・ピクチャーズ(以下、NSP)の取締役に就任している。
北条司
655#1
大阪府大阪市住吉区出生[2][3]、鳥取県境港市入船町育ち[2][4]。ペンネームは、紙芝居作家時代に兵庫県神戸市で経営していたアパート「水木荘」から名付けた[5]。1958年に漫画家としてデビュー。代表作の『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを発表し、妖怪漫画の第一人者となる。
水木しげる
657#1
第1作は同誌1994年6月号に読み切りとして掲載(いわゆる第0話)、作者にとってはこの作品がデビュー作でもある。本作品が同年春のアフタヌーン四季賞で四季賞を受賞する。続いて9月号に続編が掲載され、同年12月号からは連載となり、2006年4月号まで掲載された。全140話。物語全体を通して、穏やかな独特の世界を描いていく。
ヨコハマ買い出し紀行
659#8
株主に企業へ投資させて、その利益と損失を共有する株式会社のシステムはオランダから始まった。1602年にはオランダ東インド会社がアムステルダム証券取引所で最初の株券を発行し、有価証券を発行した最初の会社となっている。
証券取引所
660#4
株式を表章する有価証券が発行されることがあり、これを株券という。
株式
660#5
世界初の株式会社は1602年に設立されたオランダ東インド会社といわれている。株式は会社に対する権利全体を均等に分けるとともに、多額の出資を行った者には複数の株式の所有を認めることで、権利関係の処理の簡便化と流通の利便を図り大規模な事業での資本の調達を可能にする点に特質がある。
株式
660#13
定款に1株の金額(券面額)の記載があり、それが株券に表示されてある株式を額面株式といい、株券に券面額の記載がない株式を無額面株式という。無額面株式は1915年にニューヨーク州が初めて発行を認めた。
株式
665#5
テレビアニメは2004年から放送が開始され、2010年に第6シリーズまでの全シリーズの本放送が終了した。2008年冬には劇場版が公開された。
MAJOR
677#1
株券の作成方法としては、証券印刷会社に委託して作成する方法と、市販の株券用紙にチェックライター等で株数その他の必要的記載事項を記載する方法がある。大企業では前者の方法を採るが、小さな企業ではコスト面から後者を選択することも多い。さらに、実際は株券不所持制度を利用し、実体としての株券を発行しないことがほとんどである。また、株式の譲渡を定款で制限しているような会社については違法を承知で株券自体を発行しないこともあったといわれる。
株券
681#6
起源は諸説あり、古くは古代エジプトに由来するとする説などが存在していたが、現在中国説が最も有力であり、また、全て東方に発生したものが欧州に移入されたとする点では一致している。これら東方に発生したものを西アジア方面から復員した十字軍やサラセン人などの手によって欧州に伝えられた可能性が高い。
トランプ
681#16
1953年に任天堂がプラスチック素材を取り入れたトランプを開発・販売。
トランプ
689#7
そしてマクスウェル方程式を解くことにより、電磁波の速度を計算したところ、これが光の速度 と一致したため、光の正体は電磁波であると考えられるようになった(そしてそれは正しかった)。
特殊相対性理論
694#1
アメリカ合衆国では1930年代初めごろ、新聞に連載される形で始まった。その後世界各国で書かれているが、アメリカと日本で特に盛んである。
SF漫画
694#2
アメリカ合衆国でのSF漫画(コミック)のはじまりは、1938年の『スーパーマン』である。その後、SF的設定のスーパーヒーローもの、『フラッシュ・ゴードン』や『』のように宇宙を舞台にしたもの等、様々なSF漫画が登場した。
SF漫画
695#4
アメリカ合衆国では、1930年代ごろからホラー漫画が登場し始め、この当時はユニバーサル・ホラーに影響を受けたものが多かった。 1940年代にはホラー要素のある推理物や犯罪ものが増えた。 1960年代半ばに行われた表現規制の緩和に伴う やスプラッター映画の大ブームが来るまで、映画では成しえなかったおぞましい描写は等で知られるECコミックをはじめとする漫画雑誌が担っていた。 この当時のホラー漫画の描写はあまりにも過激であるため、賛否両論が巻き起こり、しばしば検閲にかけられた。 20世紀末期から21世紀にかけてはDCコミックスの『ヘルブレイザー』や、ダークホースコミックの『ヘルボーイ』などが登場し、映画化を果たした作品も出てきている。
ホラー漫画