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59
10#35
話者数4位のアラビア語も広い共通言語圏を持つ言語である。アラビア語はクルアーンの言語としてイスラム圏全域に使用者がいるが、とくに北アフリカから中東にかけて母語話者が多く、公用語とする国々は23カ国にのぼっていて、ひとつのアラブ文化圏を形成している。ただしこれも文語であるフスハーと口語であるアーンミーヤに分かれており、アーンミーヤはさらに多数の方言にわかれている。
言語
11#136
こうした中で、日本語に人称を表す語彙が多いことは注意を引く。たとえば、『類語大辞典』[59]の「わたし」の項には「わたし・わたくし・あたし・あたくし・あたい・わし・わい・わて・我が輩・僕・おれ・おれ様・おいら・われ・わー・わん・朕・わっし・こちとら・自分・てまえ・小生・それがし・拙者・おら」などが並び、「あなた」の項には「あなた・あんた・きみ・おまえ・おめえ・おまえさん・てめえ・貴様・おのれ・われ・お宅・なんじ・おぬし・その方・貴君・貴兄・貴下・足下・貴公・貴女・貴殿・貴方(きほう)」などが並ぶ。
日本語
11#245
平安時代末頃には、
日本語
11#298
9世紀には万葉仮名の字体をより崩した「草仮名」が生まれ(『讃岐国戸籍帳』の「藤原有年申文」など)、さらに、草仮名をより崩した平仮名の誕生をみるに至った。これによって、初めて日本語を自由に記すことが可能になった。平仮名を自在に操った王朝文学は、10世紀初頭の『古今和歌集』などに始まり、11世紀の『源氏物語』などの物語作品群で頂点を迎えた。
日本語
11#300
平仮名も、片仮名も、発生当初から、1つの音価に対して複数の文字が使われていた。たとえば、ha(当時の発音は ɸa)に当たる平仮名としては、「波」「者」「八」などを字源とするものがあった。1900年(明治33年)に「小学校令施行規則」が出され、小学校で教える仮名は1字1音に整理された。これ以降使われなくなった仮名を、今日では変体仮名と呼んでいる。変体仮名は、現在でも料理屋の名などに使われることがある。
日本語
11#301
平安時代までは、発音と仮名はほぼ一致していた。その後、発音の変化に伴って、発音と仮名とが1対1の対応をしなくなった。たとえば、「はな(花)」の「は」と「かは(川)」の「は」の発音は、平安時代初期にはいずれも「ファ」(ɸa) であったとみられるが、平安時代に起こったハ行転呼により、「かは(川)」など語中語尾の「は」は「ワ」と発音するようになった。ところが、「ワ」と読む文字には別に「わ」もあるため、「カワ」という発音を表記するとき、「かわ」「かは」のいずれにすべきか、判断の基準が不明になってしまった。ここに、仮名をどう使うかという仮名遣いの問題が発生した。
日本語
11#302
その時々の知識人は、仮名遣いについての規範を示すこともあったが(藤原定家『下官集』など)、必ずしも古い仮名遣いに忠実なものばかりではなかった(「日本語研究史」の節参照)。また、従う者も、歌人、国学者など、ある種のグループに限られていた。万人に用いられる仮名遣い規範は、明治に学校教育が始まるまで待たなければならなかった。
日本語
11#334
日本語の1音1音を仮名で記すようになった当初は、音韻組織全体に対する意識はまだ弱かったが、やがてあらゆる直音を1回ずつ集めて誦文にしたものが成立する。平安時代初期には「天地の詞」が、平安時代中期から後期にかけて「いろは歌」が現れた。これらはほんらい漢字音のアクセント習得のために使われたとみられるが[180]、のちにいろは歌は文脈があって内容を覚えやすいことから、『色葉字類抄』(12世紀)など物の順番を示す「いろは順」として用いられ、また仮名の手本としても人々の間に一般化している。
日本語
11#339
仮名遣いについては、鎌倉時代の初め頃に藤原定家がこれを問題とし、定家はその著作『下官集』において、仮名遣いの基準を前代の平安時代末期の草子類の仮名表記に求め、規範を示そうとした。ところが「お」と「を」の区別については、平安時代末期にはすでにいずれもwoの音となり発音上の区別が無くなっていたことにより、相当な表記の揺れがあり、格助詞の「を」を除き前例による基準を見出すことができなかった。そこで『下官集』ではアクセントが高い言葉を「を」で、アクセントが低い言葉を「お」で記しているが、このアクセントの高低により「を」と「お」の使い分けをすることは、すでに『色葉字類抄』にも見られる。南北朝時代には行阿がこれを増補して『仮名文字遣』を著した(これがのちに「定家仮名遣」と呼ばれる)。行阿の姿勢も基準を古書に求めるというもので、「お」と「を」の区別についても定家仮名遣の原則を踏襲している。しかし行阿が『仮名文字遣』を著した頃、日本語にアクセントの一大変化があり、woの音を含む語彙に関しても定家の時代とはアクセントの高低が異なってしまった。その結果「お」と「を」の仮名遣いについては、定家が示したものとは齟齬を生じている。
日本語
11#354
一方、明治・大正から昭和戦前期にかけて、日本人がアメリカ・カナダ・メキシコ・ブラジル・ペルーなどに多数移民し、日系人社会が築かれた。これらの地域コミュニティでは日本語が使用されたが、世代が若年になるにしたがって、日本語を解さない人が増えている。
日本語
31#27
1789年7月14日、パリ市内で発生したバスティーユ襲撃によってフランス革命が勃発した。ヴェルサイユ行進でルイ16世が強制的にパリのテュイルリー宮殿に戻されてからは、革命の重要な事件の多くがパリで発生した。
パリ
31#36
19世紀末から20世紀初めにかけて、パリでは数回の万国博覧会が開かれた。1889年の万博ではエッフェル塔が建てられ、1900年にはメトロが開業した。この時代をベル・エポック(よき時代)と呼ぶ。パリは「光の都」と呼ばれ、ロンドンに匹敵する経済都市に成長した。
パリ
31#44
2015年11月にはパリ同時多発テロ事件が発生した。
パリ
32#0
ヨーロッパ[※ 1](ポルトガル語・Dutch: Europa Portuguese:[ew.ˈɾɔ.pɐ] Dutch:[øːˈroːpaː, ʏˑˈroːpaˑ])又は<b data-parsoid='{"dsr":[765,773,3,3]}'>欧州</b>は、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は<b data-parsoid='{"dsr":[805,814,3,3]}'>欧羅巴。
ヨーロッパ
32#2
面積から見るとヨーロッパ州は世界で2番目に小さな大州であり、1018万km2は地球表面積の2%、陸地に限れば6.8%を占める。アジアに跨る領土を持つロシアは、ヨーロッパ50カ国の中で面積および人口第一位の国家である。対照的に最も小さな国家はバチカン市国である。総人口はアジア・アフリカに次ぐ7億3300万。これは地球総人口の11%である[3]。
ヨーロッパ
32#9
単語ヨーロッパの語源にはさまざまな説がある。古代のギリシア神話には、主神ゼウスが白い雄牛に変化して攫ったフェニキアの王女エウローペー()が登場する。ゼウスは彼女をクレタ島へ連れ出し、そこでミーノースら3人の子どもを得た[21]。このエウローペーがヨーロッパの語源という説がある[22]。
ヨーロッパ
32#14
漢語では「欧羅巴(歐羅巴)」と音写されたため、中国語では漢字で「歐洲」と表される。日本語においても「欧州連合」のような漢字表記もあるが、カタカナ「ヨーロッパ」の方が一般的である。ちなみに、「欧(歐)」という漢字は、本来「体を曲げてかがむ」という意味であり、「吐く・もどす」「殴る」「うたう」の意味にも用いられたが、現在ではこれらの用例はほとんどなく、当て字としての「ヨーロッパ」の意味で用いられている。
ヨーロッパ
32#41
インド・ヨーロッパ語族 ゲルマン語派 :英語、オランダ語、ドイツ語、ルクセンブルク語、ノルウェー語、スウェーデン語、デンマーク語、アイスランド語、フェロー語など イタリック語派 :イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語、カタルーニャ語、ロマンシュ語など ケルト語派 :アイルランド語、ウェールズ語、スコットランド・ゲール語、マン島語など スラブ語派 :ロシア語、ベラルーシ語、ウクライナ語、チェコ語、スロバキア語、ブルガリア語、マケドニア語、スロベニア語、セルビア語、ボスニア語、クロアチア語、モンテネグロ語、ポーランド語など バルト語派 :ラトビア語、リトアニア語 ギリシャ語派 :ギリシャ語 アルバニア語派 :アルバニア語 アルメニア語派 :アルメニア語 インド・イラン語派 :オセット語、ロマ語 ウラル語族 フィン・ウゴル語派 :フィンランド語、サーミ語、エストニア語、ハンガリー語など サモエード語派 :ネネツ語 コーカサス諸語 :チェチェン語、グルジア語など バスク語 アフロ・アジア語族 :マルタ語 アルタイ諸語 テュルク語族 :トルコ語、アゼルバイジャン語、タタール語など モンゴル語族 :カルムイク語
ヨーロッパ
42#7
つまり地球上の生物で言えば、タンパク質からなる酵素を中心とする代謝の働きと、核酸からなる遺伝子による遺伝の働きが、生物が生物であることを維持するためのしくみである。
生物
42#13
生物の特徴の一つは、それぞれの個体が種と呼ばれるグループを形成していることである。種の違いを認識し学名をつけるのが分類という作業である。現在分類されている種だけで200万といわれるが、未知の生物種は1千万とも1億ともいわれている。分類には何段階かの範疇があり、大きいほうから順に、界、門、綱、目、科、属、という枠組みが設けられている。歴史的に最も古くは生物は植物と動物からなるとした二界説(植物界、動物界)があり、その後の生物観の進展とともに、三界説、五界説、八界説などが登場した。現在、一般には生物全体をモネラ界(原核生物を含む)、原生生物界、植物界、菌界、動物界に分類する五界説が広く流布しているが、これはいわゆる人為分類である。分類学は系統を反映した自然分類を目指して現在も研究がされ続けている。近年では、界の上の枠組みとして、ドメインが設けられていて、細胞特性に従い生物全体を真核生物、細菌(バクテリア)、古細菌(アーキア)に分類する三ドメイン説が知られるようになってきている。
生物
42#19
ドーキンスは「利己的な遺伝子」で、たまたま自己複製する分子が存在し、それを継続的に支える環境が生まれた結果、生物が誕生した、とした。核酸は遺伝子の実体だが、。
生物
47#18
そのなかで、1960年代にパーソンズのもとに留学し、ドイツに帰国後、社会学者として活動を開始したニクラス・ルーマンや、1990年代末以降の英国ブレア労働党政権のブレーンとして名を馳せたアンソニー・ギデンズらは、それぞれ異なった系譜からではあるが、政策科学としての社会学という立場を打ち出した。
社会学
48#0
古代エジプト(こだいエジプト、)は、古代のエジプトに対する呼称。具体的にどの時期を指すかについては様々な説が存在するが、この項においては紀元前3000年頃に始まった第1王朝から紀元前30年にプトレマイオス朝が共和制ローマによって滅ぼされるまでの時代を扱う。
古代エジプト
48#1
エジプトは不毛の砂漠地帯であるが、毎年春のナイル川の増水で水に覆われる地域には河土が運ばれて堆積し、農耕や灌漑が可能になる。この氾濫原だけが居住に適しており、主な活動はナイル河畔で行われた。ナイル川の恩恵を受ける地域はケメト(黒い大地)と呼ばれ、ケメトはエジプトそのものを指す言葉として周囲に広がるデシェレト(赤い大地、ナイル川の恩恵を受けない荒地)と対比される概念だった。このケメトの範囲の幅は非常に狭く、ナイル川の本流・支流から数kmの範囲にとどまっていた。しかしながら川の周囲にのみ人が集住しているということは交通においては非常に便利であり、川船を使って国内のどの地域にも素早い移動が可能であった。この利便性は、ナイル河畔に住む人々の交流を盛んにし、統一国家を建国し維持する基盤となった。
古代エジプト
48#2
ナイル川本流からナイル川の上流は谷合でありナイル川1本だけが流れ、下流はデルタ地帯(ナイル川デルタ)が広がっている。最初に上流地域(上エジプト)と下流地域(下エジプト)[1]でそれぞれ違った文化が発展した後に統一されたため、ファラオ(王)の称号の中に「上下エジプト王」という部分が残り、古代エジプト人も自国のことを「二つの国」と呼んでいた。
古代エジプト
48#3
毎年のナイル川の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ、太陽暦が作られた。太陽とシリウス星が同時に昇る頃、ナイル川は氾濫したという。また、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するため、測量術、幾何学、天文学が発達した。ヒエログリフから派生したワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字(原カナン文字)は世界の殆どのアルファベットの起源となったされる。
古代エジプト
48#4
エジプト文明と並ぶ最初期における農耕文明の一つであるメソポタミア文明が、民族移動の交差点にあたり終始異民族の侵入を被り支配民族が代わったのと比べ、地理的に孤立した位置にあったエジプトは比較的安定しており、部族社会が城壁を廻らせて成立する都市国家の痕跡は今の所発見されていない。
古代エジプト
48#6
古代エジプトは、次の時代に区分されている。
古代エジプト
48#7
エジプト原始王時代(紀元前4200年頃-紀元前3150年) エジプト初期王朝時代(紀元前3150年-紀元前2686年) エジプト古王国(紀元前2686年-紀元前2181年) エジプト第1中間期(紀元前2181年-紀元前2040年) エジプト中王国(紀元前2040年-紀元前1663年) エジプト第2中間期(紀元前1663年-紀元前1570年) エジプト新王国(紀元前1570年-紀元前1070年) エジプト第3中間期(紀元前1069年-紀元前525年) エジプト末期王朝(紀元前525年-紀元前332年) プトレマイオス朝(紀元前332年-紀元前30年)
古代エジプト
48#8
エジプトで人々が定住し農耕を開始したのは、およそ紀元前5000年ごろと考えられており[2]、紀元前4500年ごろにはモエリス湖畔にファイユーム文化が成立し、紀元前4400年ごろからは上エジプトの峡谷地帯を中心にナカダ文化が興った。この時期のエジプトはいくつもの部族国家に分裂しており、やがてこの国家群が徐々に統合されていくつかの国家にまとまりはじめた。ただし統合された部族国家は地域的なまとまりをもち続け、上エジプトに22、下エジプトに20、合計約42あるノモスと呼ばれる行政地区としてエジプト各王朝の行政単位となっていった[3]。紀元前3500年頃にはまず上エジプト、そして下エジプト、二つの統一国家が成立したと考えられている。紀元前3300年頃にはヒエログリフの文字体系が確立し、太陽暦(シリウス・ナイル暦)が普及した。
古代エジプト
48#9
紀元前3150年頃、上エジプトのナルメル王が下エジプトを軍事的に征服し、上下エジプトを統一してエジプト第1王朝を開いたとされる。従来はエジプト第1王朝の建国者とされてきたメネス王がナルメル王にあたるのか、それとも別の王に比定されるのかについては諸説ある。また、ナルメルは上下エジプトの王として確認される最古の王であるが、ナルメル王よりも古い上下エジプトの王がいた可能性もある。ヘロドトスによれば第1王朝期に、上下エジプトの境界地域に首都としてメン・ネフェル(メンフィス)が築かれたとされ、以後第一中間期の第8王朝にいたるまでエジプトの各王朝はここに都した。エジプト第1王朝は紀元前2890年頃に王統の交代によってエジプト第2王朝となった。この初期王朝時代の2王朝については史料が少なく、不明な点も多い。
古代エジプト
48#10
紀元前2686年頃成立したエジプト第3王朝からは、エジプト古王国期と呼ばれ、エジプト最初の繁栄期に入る。首都は一貫してメンフィスに置かれた。古王国時代には中央政権が安定し、強力な王権が成立していた。このことを示すのが、紀元前2650年頃に第3王朝第2代の王であるジョセル王が建設した階段ピラミッドである。このピラミッドは当初それまでの一般的な墓の形式であったマスタバで建設されたが、宰相イムホテプによる数度の設計変更を経て、最終的にマスタバを6段積み重ねたような階段状の王墓となった。これがエジプト史上最古のピラミッドとされるジェゼル王のピラミッドである。このピラミッドは以後の王墓建設に巨大な影響を与え、以後マスタバに代わりピラミッドが王墓の中心的な形式となった。紀元前2613年にはスネフェルが即位し、エジプト第4王朝が始まる。この第4王朝期には経済が成長し、またピラミッドの建設が最盛期を迎えた。スネフェル王は紀元前2600年頃にヌビア、リビュア、シナイに遠征隊を派遣して勢力範囲を広げる一方、まず屈折ピラミッドを、さらに世界初の真正ピラミッドである赤いピラミッドを建設した。スネフェルの次の王であるクフの時代に、ピラミッド建設は頂点を迎え、世界最大のピラミッドであるギザの大ピラミッドが建設された。その後、クフの2代あとにあたるカフラー王がカフラー王のピラミッドとその門前にあるギザの大スフィンクスを建造し、さらにその次のメンカウラー王がメンカウラー王のピラミッドを建設し、ピラミッドの建設は頂点に達した。この3つのピラミッドは三大ピラミッドと呼ばれ、エジプト古王国時代を代表する建造物となっている。この後、エジプト第5王朝に入ると経済は引き続き繁栄していたものの、ピラミッドの意味が変質してクフ王時代のような巨大な石造りのものを建てられることはなくなり、材料も日干しレンガを使用したことで耐久性の低いものとなった。続くエジプト第6王朝も長い安定の時期を保ったが、紀元前2383年に即位し94年間在位したペピ2世の治世中期より各地の州(セパアト、ギリシア語ではノモスと呼ばれる)に拠る州侯たちの勢力が増大し、中央政府の統制力は失われていった。紀元前2184年にペピ2世が崩御したころには中央政権の統治は有名無実なものとなっており、紀元前2181年に第6王朝が崩壊したことにより古王国時代は終焉した。
古代エジプト
48#12
紀元前2060年頃に第11王朝にメンチュヘテプ2世が即位すると、紀元前2040年頃に第9王朝の後継であるエジプト第10王朝を打倒してエジプトを再び統一し、エジプト中王国時代が始まった。首都は引き続きテーベにおかれた。また中王国期に入るとピラミッドの造営も復活したが、第4王朝期のような壮大なピラミッドはもはや建造されず、日干しレンガを多用したものが主となった。紀元前1991年頃にはアメンエムハト1世によってエジプト第12王朝が開かれ、首都もメンフィス近郊のイチ・タウィへと遷した。第12王朝期は長い平和が続き、国内の開発も急速に進んだ。特に歴代の王が力を注いだのは、ナイル川の支流が注ぎこむ広大な沼沢地であったファイユーム盆地の開発であり、センウセルト2世の時代に着工した干拓工事は王朝後期のアメンエムハト3世時代に完成し、ファイユームは広大な穀倉地帯となった。センウセレト2世は紀元前1900年頃にアル・ラフーンにピラミッド(ラフーンのピラミッド)を造営している。中王国はヌビアに対するものを除き対外遠征をあまり行わず、とくにシリア方面には軍事進出を行わなかったが、唯一の例外として紀元前1850年頃にセンウセレト3世がヌビアおよびシリアに遠征した。センウセレト3世は名君として知られており、国内においては州侯の勢力を削ぎ、行政改革を行って国王の権力を拡大している。つづくアメンエムハト3世期にも政権は安定しており、紀元前1800年頃にはファイユーム盆地の開発が完成し、またハワーラのピラミッドが造営されている。しかし彼の死後は短命な政権が続き、紀元前1782年頃には第12王朝が崩壊して中王国期も終焉を迎えた。
古代エジプト
48#14
紀元前1540年頃、上エジプトを支配していた第17王朝のイアフメス1世がヒクソスを放逐して南北エジプトを再統一し、エジプト新王国時代がはじまった。イアフメス1世は第17王朝の王であるが、エジプト統一という一大画期があるため、連続した王朝にもかかわらずこれ以後の王朝は慣例としてエジプト第18王朝と呼ばれる。イアフメス1世はさらにヒクソスを追ってパレスチナへと侵攻し、第15王朝を完全に滅ぼした。これが嚆矢となり、以後のエジプト歴代王朝はそれまでの古王国期や中王国期とことなり、パレスティナ・シリア方面へと積極的に進出するようになり、ナイル川流域を越えた大帝国を建設するようになっていった。このため、新王国時代は「帝国時代」とも呼ばれる。首都は統一前と同じく引き続きテーベにおかれた。イアフメス1世はさらに南のヌビアにも再進出し、この地方を再びエジプトの支配下に組み入れた。次のアメンヘテプ1世はカルナック神殿の拡張などの内政に力を入れた。紀元前1524年頃に即位したトトメス1世はこの国力の伸長を背景に積極的な外征を行い、ティグリス・ユーフラテス川上流部を地盤とする大国ミタンニへと侵攻し、ユーフラテス河畔の重要都市カルケミシュまで侵攻してその地に境界石を建立した。また彼は陵墓の地として王家の谷を開発し、以後新王国時代の王のほとんどはこの地へと埋葬された。次のトトメス2世は早世したため、紀元前1479年頃に子のトトメス3世が即位したものの若年であったため、実際には共治王として即位したトトメス2世の王妃であるハトシェプストが実権を握り、統治を行っていた。ハトシェプストは遠征よりも内政や交易を重視し、この時代にプントとの交易が再開され、またクレタなどとの交易も拡大したが、一方で遠征を行わなかったためミタンニとの勢力圏の境界にあるシリア・パレスチナ地方の諸国が次々と離反していった。紀元前1458年頃にハトシェプストが退位すると、実権を握ったトトメス3世は打って変わってアジアへの積極的な遠征を行い、メギドの戦いなど数々の戦いで勝利を収めて国威を回復させた。続くアメンホテプ2世、トトメス4世、アメンホテプ3世の時代にも繁栄はそのまま維持され、エジプトの国力は絶頂期を迎えた。しかしこのころにはもともとテーベ市の守護神であった主神アメンを奉じる神官勢力の伸長が著しくなっており、王家と徐々に衝突するようになっていた。こうしたことから、次のアメンホテプ4世は紀元前1346年ごろにアクエンアテンと名乗って伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止、アメン信仰の中心地である首都テーベからアマルナへと遷都し、太陽神アテンの一神崇拝に改める、いわゆるアマルナ宗教改革を行った。このアテン信仰は世界最初の一神教といわれ、アマルナ美術と呼ばれる美術が花開いたが、国内の統治に集中して戦闘を避けたため、当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイトにシリア・パレスチナ地方の属国群を奪われ、国力が一時低下する。紀元前1333年頃に即位したツタンカーメン王はアメン信仰を復活させ、アマルナを放棄してテーベへと首都を戻したが若くして死去し、アイを経てホルエムヘブが即位する。ホルエムヘブは官僚制を整備し神官勢力を統制してアマルナ時代から混乱していた国内情勢を落ち着かせたが継嗣がおらず、親友であるラムセス1世を後継に指名して死去した。これにより第18王朝の血筋は絶え、以後は第19王朝と呼ばれる。
古代エジプト
48#15
王朝が交代したと言ってもラムセス1世への皇位継承は既定路線であり、権力はスムーズに移譲された。ラムセス1世も老齢であったために即位後ほどなくして死去し、前1291年に即位した次のセティ1世はアマルナ時代に失われていた北シリア方面へと遠征して再び膨張主義を取るようになった。紀元前1279年ごろに即位した次のラムセス2世は古代エジプト最大の王と呼ばれ、彼の長い統治の時代に新王国は最盛期を迎えた。紀元前1274年にはシリア北部のオロンテス川でムワタリ2世率いるヒッタイトと衝突し、カデシュの戦いが起きた。この戦いは痛み分けに終わり、この時結ばれた平和条約(現存する最古の平和条約)はのちにヒッタイトの首都ハットゥシャから粘土板の形で出土している。またラムセス2世は国内においてもさまざまな大規模建築物を建設し、下エジプトのデルタ地方東部に新首都ペル・ラムセスを建設して遷都した。その次のメルエンプタハ王の時代には紀元前1208年ごろに海の民の侵入を撃退したが、彼の死後は短期間の在位の王が続き、内政は混乱していった。紀元前1185年頃には第19王朝は絶え、第20王朝が新たに開かれた。第20王朝第2代のラムセス3世は最後の偉大なファラオと呼ばれ、この時代に新王国は最後の繁栄期を迎えたが、彼の死後は国勢は下り坂に向かい、やがて前1070年頃に第20王朝が滅ぶとともに新王国時代も終わりを告げた。これ以後古代エジプトが終焉するまでの約1000年は、基本的には他国に対する軍事的劣勢が続いた。
古代エジプト
48#16
第20王朝末期にはテーベを中心とするアメン神官団が勢力を増していき、紀元前1080年頃にはアメン神官団の長ヘリホルがテーベに神権国家(アメン大司祭国家)を立てたことでエジプトは再び南北に分裂することとなった。紀元前1069年に成立した第21王朝は首都をペル・ラムセスからタニスへと移し、アメン大司祭国家に名目的な宗主権を及ぼした。紀元前945年にはリビュア人傭兵の子孫であるシェションク1世が下エジプトに第22王朝を開き、アメン大司祭国家を併合して再統一を果たすが、その後は再びアメン大司祭が独立したほか下エジプトに5人の王が分立するなど混乱を極めた。こうした中、エジプトの強い文化的影響を受けていた南のヌビアが勢力を拡大し、紀元前747年にはピアンキがヌビアから進撃してエジプト全土を制圧し、第25王朝を開いた。しかしその後、メソポタミアに強力な帝国を築いたアッシリアの圧迫にさらされ、紀元前671年にはアッシリア王エセルハドンの侵入をうけて下エジプトが陥落。一時奪回に成功したものの、アッシュールバニパル王率いるアッシリア軍に紀元前663年にはテーベを落とされて第25王朝のヌビア人はヌビアへと撤退した。
古代エジプト
48#19
ペルシアのこの圧政は10年間しか継続せず、紀元前332年、マケドニア王のアレクサンドロス3世がエジプトへと侵攻し、占領された。アレクサンドロスがペルシアを滅ぼすとエジプトもそのままアレクサンドロス帝国の一地方となったが、紀元前323年にアレクサンドロス3世が死去すると後継者たちによってディアドコイ戦争が勃発し、王国は分裂した。この混乱の中でディアドコイの一人であるプトレマイオスがこの地に拠って勢力を拡大し、紀元前305年にはプトレマイオス1世として即位することで、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝が建国された。この王朝はセレウコス朝シリア王国、アンティゴノス朝マケドニア王国と並ぶヘレニズム3王国のひとつであり、国王および王朝の中枢はギリシャ人によって占められていた。プトレマイオス1世は首都をアレクサンドロスによって建設された海港都市であるアレクサンドリアに置き、国制を整え、またムセイオンおよびアレクサンドリア図書館を建設して学術を振興するなどの善政を敷いた。続くプトレマイオス2世およびプトレマイオス3世の時代にも繁栄が続いたが、その後は暗愚な王と政局の混乱が続き、またシリアをめぐるセレウコス朝との6回にわたるシリア戦争などの打ち続く戦争によって国力は疲弊していった。紀元前80年にはプトレマイオス11世が殺されたことで王家の直系が断絶し、以後は勢力を増していく共和政ローマの影響力が増大していくこととなった。紀元前51年に即位したクレオパトラ7世はガイウス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスといったローマの有力者たちと誼を通じることでエジプトの存続を図ったが、紀元前31年にオクタウィアヌス率いるローマ軍にアクティウムの海戦で敗北し、紀元前30年にアレクサンドリアが陥落。クレオパトラ7世は自殺し、プトレマイオス朝は滅亡した。これによりエジプトの独立王朝時代は終焉し、以後はローマの皇帝属州アエギュプトゥスとなった。
古代エジプト
48#20
古代エジプトの主食はコムギから作るパンであり、エジプト人は「パン食い人」と呼ばれるほど大量のパンを食べた[4]。また、サワードウによる発酵パンが誕生したのもエジプトである。紀元前3800年頃にオオムギから作るビールの生産が始まり、紀元前3500年頃にワインの生産が始まった。ワインブドウは麦と違い外来作物であり、ワインは高貴な酒で一般市民はビールを飲んだが、後に生産量が増えて市民にも広まった。ビールはアルコール分が低く、パンと並んで主要な食物とされており、大量に生産・消費された。
古代エジプト
48#21
ファラオは神権により支配した皇帝。わずかな例外を除き男性。継承権は第一皇女にあり、したがって第一皇女の夫がファラオになる。名前の一部には神の名前が含まれた。人口の1%程度の少ない貴族階級が土地を所有し支配していた。残る99%であるほとんどの平民は小作だった。ファラオによって土地を与えられることにより貴族となるが、ファラオが交替したり、王朝が変わると、土地を取り上げられ貴族ではなくなる事も多く、貴族は必ずしも安定した地位にあるわけではなかった。
古代エジプト
48#23
古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスが「エジプトはナイル川の賜物」という言葉を『歴史』に記しているとおり、古代エジプトの主要産業である農業はナイル川の氾濫に多くを負っていた。ナイル川は6月ごろ、モンスーンがエチオピア高原に降らす雨の影響で氾濫を起こす。この氾濫は水位の上下はあれど、氾濫が起きないことはほとんどなかったうえ、鉄砲水のような急激な水位上昇もほぼなく、毎年決まった時期に穏やかに増水が起こった。この氾濫はエチオピア高原から流れてきた肥沃な土壌を氾濫原に蓄積させ、10月ごろに引いていく。これによりエジプトは肥料の必要もなく、毎年更新される農耕に適した肥沃な土壌が得られた。浅い水路を掘って洪水時の水をためていたこの方式はベイスン灌漑方式と呼ばれ、19世紀にいたるまでエジプトの耕作方法であり続けた。作物は大麦と小麦が中心であり、野菜ではタマネギ、ニンニク、ニラ、ラディッシュ、レタスなどが主に栽培された。豆類ではソラマメ、ヒヨコ豆。果実ではブドウ、ナツメヤシ、イチジク、ザクロなどがあった。外国から伝わった作物としては、新王国時代にリンゴ、プラム、オリーブ、スイカ、メロン。プトレマイオス朝時代にはモモ、ナシなどが栽培された。
古代エジプト
48#24
古王国時代から中央集権の管理下におかれており、水利監督官は洪水の水位によって収穫量を予測した。耕地面積や収穫量は記録され、収穫量をもとに徴税が行われて国庫に貯蔵され、食料不足の際には再配分された。農民の大部分は農奴であったが、新王国時代になると報酬によって雇われる農民や、自立農民が増加した[5]。
古代エジプト
48#25
エジプトの本国はナイル川の領域に限られており、それ以外の地域は基本的にすべて外国とみなされていた。ナイル川流域でも、エレファンティネ(アスワン)の南にある第一急流によって船の遡上が阻害されるため、それより南は外国とみなされていた。この南の地域はヌビアと総称され、古王国以降の歴代王朝はたびたび侵攻し徐々に支配地域を南下させていったものの、動乱期になるとこの地域は再び独立し、統一期になると再びエジプトの支配下に入ることを繰り返した。この過程でヌビア地方はエジプトの強い影響を受け、のちに成立したクシュ王国においてもピラミッドの建設(ヌビアのピラミッド)をはじめとするエジプト文化の影響が各所にみられる。ヌビア以外の諸外国については中王国時代までは積極的な侵攻をかけることはほとんどなく、交易関係にとどまっていたものの、新王国期にはいるとヒクソスの地盤であったパレスチナ地方への侵攻を皮切りに、パレスチナやシリア地方の小国群の支配権をめぐってミタンニやヒッタイト、バビロニアなどの諸国と抗争を繰り広げるようになった。また、古王国期から新王国期末までの期間は、アフリカ東部にあったと推定されているプント国と盛んに交易を行い、乳香や没薬、象牙などを輸入していた。
古代エジプト
48#26
エジプトの主要交易品と言えば金であった。金は上エジプトのコプトスより東に延びるワディ・ハンママート周辺や、ヌビアのワワトやクシュから産出された[6]。この豊富な金を背景にエジプトは盛んに交易を行い、国内において乏しい木材・鉱物資源を手に入れるため、銅、鉄、木材(レバノン杉)、瑠璃などをシリア、パレスチナ、エチオピア、イラク、イラン、アナトリア、アフガニスタン等から輸入していた。とくに造船材料として必須である木材は国内で全く産出せず、良材であるレバノン杉を産するフェニキアのビブロスなどからに輸入に頼っていた。ビブロスは中王国期にはエジプト向けの交易の主要拠点となり、当時エジプト人は海外交易船を総称してビブロス船と呼んだ[7]。ビブロスからはまた、キプロスから産出される豊富な銅もエジプトに向け出荷されていた。このほかクレタ島のミノア文明も、エジプトと盛んに交易を行っていた。
古代エジプト
48#28
貨幣には貴金属が使われた。初期は秤量貨幣だったが、後期には鋳造貨幣が用いられた。
古代エジプト
48#29
興味深い例としては、穀物を倉庫に預けた「預り証」が、通貨として使われたこともある。穀物は古くなると価値が落ちるため、この通貨は時間の経過とともに貨幣価値が落ちていく。結果として、通貨を何かと交換して手にいれたら、出来るだけ早く他の物と交換するという行為が行われたため、流通が早まった。その結果、古代エジプトの経済が発達したという説があり、地域通貨の研究者によって注目されている。 また、ローマの影響下で貨幣が使われるようになった結果、「価値の減っていく通貨」による流通の促進が止まり、貨幣による富の蓄積が行われるようになりエジプトの経済が没落したという説もある。
古代エジプト
48#31
エジプトの文字は、統一王朝成立以前に表語文字であるヒエログリフ(hieroglyph、聖刻文字、神聖文字)とアブジャドであるヒエラティック(Hieratic; 神官文字)の二つが成立した。ヒエログリフの方がより正式な文字として使用されたが、この二つの文字は並行して発展した。この両文字が誕生してからはるか後世にあたる紀元前660年ごろに、ヒエラティックを崩してより簡略化したデモティック(民衆文字、Demotic)が誕生し、紀元前600年頃にはデモティックがもっとも一般的な文字となった。この文字を元に様々な文学が成立し、エジプト文学はシュメール文学と共に、世界最古の文学と考えられている。古王国時代には、讃歌や詩、自伝的追悼文などの文学的作品が存在していた。中王国時代からは物語文学も現れ、悲嘆文学、知恵文学、教訓文学などのジャンルが存在した『シヌヘの物語』などの作品は、現在まで伝わっている。書写材料としてはカミガヤツリ(パピルス草)から作られるパピルスが主に用いられた。
古代エジプト
48#32
古代エジプトの象徴ともいえるものがピラミッドであるが、初期の王墓の形式であったマスタバに代わりピラミッドが成立したのが古王国時代の第3王朝期であり、クフ王のピラミッドを含む三大ピラミッドが建設されてピラミッドが最盛期を迎えたのが第4王朝期と、著名なピラミッドの建設された時期は古王国時代の一時期に限られ、エジプトの長い歴史においては比較的短期間のことである。以後、古王国時代を通じてピラミッドは建設され、中王国時代にも一時建設が復活するものの、技術的にも材料的にも最盛期ほどのレベルに到達することはなく、徐々に衰退していった。ただしそれに代わり、付属の墓地群などが拡大し、葬祭における重点が移動していった。新王国期に入るとピラミッドは建設されなくなり、王の墓は王家の谷に埋葬されるようになった。
古代エジプト
48#33
建築材料としては日干しレンガが主流であり、石材も多用された。ただしエジプトには森林が存在しないため木材を産出せず、木は建築には使用されなかった。一方石材には恵まれ、石灰岩や花崗岩、砂岩などが盛んに採掘された。この豊富な石材と優れた技術を元にピラミッドやギザの大スフィンクス、カルナック神殿、ルクソール神殿、アブ・シンベル神殿といった現在も残る大建造物が続々と建設された。
古代エジプト
49#5
日本語の表記はエジプト・アラブ共和国。通称エジプト。漢字では、埃及と表記し、埃と略す。この漢字表記は、漢文がそのまま日本語や中国語などに輸入されたものである。「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川のデルタに支えられ古代エジプト文明を発展させてきた。エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成し、ピラミッドや王家の谷、ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。
エジプト
49#7
紀元前332年には、アレクサンドロス大王に征服された。その後ギリシア系のプトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化の中心の一つとして栄えた。
エジプト
49#8
プトレマイオス朝は紀元前30年に滅ぼされ、エジプトはローマ帝国の属州となりアエギュプトゥスと呼ばれた。ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広まり、コプト教会が生まれた。ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属し、豊かな穀物生産でその繁栄を支えた。
エジプト
49#9
7世紀にイスラム化。639年にイスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースによって征服され、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝、イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。これ以来、アイユーブ朝、マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上に渡って続く。特に250年間続いたマムルーク朝の下で中央アジアやカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立した。
エジプト
49#56
鉄道は、国有のエジプト鉄道が運営している。営業キロは5,063キロメートルにのぼり、カイロを起点としてナイル川デルタやナイル河谷の主要都市を結んでいる。
エジプト
53#1
この期間において著作権は保護され、著作権者は権利の対象である著作物を、原則として独占排他的に利用することができる。著作権の発生要件と消滅時期は各国の国内法令に委ねられているが、世界160ヶ国以上(2016年現在)が締結する文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約(ベルヌ条約)が、権利の発生要件として「無方式主義」(同条約5条(2))、著作権の保護期間として「著作者の生存期間及び著作者の死後50年」(同条約7条(1))を原則としていることから、著作権は著作物の創作と同時に発生し、著作者の死後50年(あるいはそれ以上)まで存続するものと規定する国が多数を占める。
著作権の保護期間
53#8
ただし、より長い保護期間を与えることも認められているため(ベルヌ条約7条(6))、保護期間が50年を超える加盟国も実際に多数存在する。欧州連合諸国、およびアメリカ合衆国は死後70年を適用し(いずれも1990年代に保護期間を延長する法改正を実施)、メキシコ(死後100年)やコートジボワール(死後99年)のように、さらに長期間にわたって著作権を保護する国もある。
著作権の保護期間
53#11
著作物の保護期間を、著作者の生存期間および著作者の死後50年とする(7条(1))。 映画の著作物の保護期間を、公衆への提供時から50年、またはこの期間に公表されないときは、製作時から50年とすることができる(7条(2))。 無名または変名の著作物の保護期間は、公衆への提供時から50年で満了する。ただし、この期間内に、著作者が用いた変名が、その著作者を示すことが明らかになったとき、無名または変名の著作者がその著作物の著作者であることを明らかにしたときは、著作者の死後50年とする(7条(4))。 写真の著作物および応用美術の著作物の保護期間は、各同盟国が独自に定めることができる。ただし、保護期間は、著作物の製作時から25年より短くしてはならない(7条(4))。 著作物の保護期間は、著作者の死亡および上記の事実(公衆への提供、製作)が発生した時から始まる。ただし、これらの事実が発生した年の翌年の1月1日から計算する(7条(5))。 著作物の保護期間は、保護が要求される同盟国の法令が定めるところによる。ただし、その国の法令に別段の定めがない限り、保護期間は、著作物の本国において定められる保護期間を超えることはない(相互主義)(7条(8))。
著作権の保護期間
53#17
世界各国における著作権の保護期間、および保護期間延長に関連する法改正の動向について概説する。なお、2007年1月現在の世界最長はメキシコの「100年」であり、以下コートジボワール(99年)、コロンビア(80年)、ホンジュラス・グアテマラ・セントビンセントおよびグレナディーン諸島・サモア(各75年)と続く。
著作権の保護期間
53#18
1993年の欧州連合域内における著作権保護期間の調和に関する指令により義務付けられていることから、著作者の死後70年としている国が多数を占める。その背景には、20世紀半ばにドイツでクラシック作曲家の子孫たち(その多くは、作曲家ではない)が延長運動を行った結果、1965年よりドイツにおいて死後70年が採用され、EU指令においてもドイツの保護期間が基準とされたことが大きいといわれる。その一方、EUでは著作隣接権を公表後50年から延長することについては2004年に断念している[1]。
著作権の保護期間
53#23
以上に挙げた著作物の著作者人格権は著作権と同じ期間だけ存続する[6]。
著作権の保護期間
53#27
1976年著作権法 (Copyright Act of 1976) の規定では、著作権の保護期間は著作者の死後50年まで(最初の発行年から75年まで)とされていた。これを20年延長し、現在の保護期間である死後70年まで(最初の発行年から95年まで)とした改正法が、1998年に成立した「ソニー・ボノ著作権保護期間延長法 (Sonny Bono Copyright Term Extension Act, CTEA)」である。「ソニー・ボノ」の名称は、カリフォルニア州選出の共和党下院議員で、この法案の成立に中心的役割を果たした[7]にちなむ。
著作権の保護期間
53#29
日本の著作権法では、1970年の著作権法全面改正以降、著作者死後38年から50年に保護期間が延長され、それを原則としていた。無名または周知ではない変名の著作物、および団体名義の著作物の著作権の保護期間は、公表後ないし創作後50年までとなっていた。また、2004年1月1日以降、映画の著作物の著作権は、公表後ないし創作後50年から70年に保護期間が延長された。
著作権の保護期間
53#45
変名の著作物において、著作者の変名が、著作者のものであるとして周知である場合(同条2項1号) 著作物の公表後70年が経過するまでの間に、実名による著作者名の登録(75条1項)があったとき(同項2号) 著作者が、著作物の公表後70年が経過するまでの間に、その実名または<b data-parsoid='{"dsr":[13004,13015,3,3]}'>周知の変名</b>を著作者名として表示して著作物を公表したとき(同項3号)
著作権の保護期間
53#46
ここで、「無名</b>の著作物」とは、著作者名が表示されていない著作物をいう。「変名」とは「雅号、筆名、略称その他実名に代えて用いられるもの」(14条)であり、「その他実名に代えて用いられるもの」の例としては俳号、芸名、四股名、ニックネーム、ハンドルネームなどが挙げられる。
著作権の保護期間
53#77
ただし、保護期間が著作者の死後70年となる場合を除いては、著作権の消滅後も著作者が生存し、著作者人格権が存続している場合もある。その場合、著作者人格権を侵害する態様で著作物を利用することはできない(18条〜20条)。また、著作者が死亡し著作者人格権が消滅しても、著作者が生存しているならば著作者人格権の侵害となるような利用行為、著作者の声望名誉を害する方法による著作物の利用行為は引き続き禁止される(60条、113条6項)。
著作権の保護期間
57#5
現代の生物学が成立したのは比較的最近だが、関連し含まれていた科学は古代から存在した。自然哲学はメソポタミア、古代エジプト、古代インド、古代中国で研究されていた。しかし、現在に繋がる生物学や自然研究の萌芽は古代ギリシアに見られる。
生物学
57#6
一般に、諸研究に先駆しているという意味で、古代ギリシャのアリストテレスをもって生物学史の始めとする。「アリストテレスは実証的観察を創始した」「全時代を通じて最も観察力の鋭い博物学者の一人」などとされ、生物の分類法を提示するなどし、後世に至るまで多大なる影響を及ぼしたのである。アリストテレスの動物学上の著作として残っているものとしては"Historia animalium"『動物誌』、"De generatione animalium"『動物発生論』、"De partibus animalium"『動物部分論』、"De anima"『心について』(『霊魂論』とも)がある。『動物誌』では、500を越える種の動物(約120種の魚類や約60種の昆虫を含む)を扱っており、随所で優れた観察眼を発揮している。植物に関する研究も行い著作もあったとされるが、失われ現在では残っていないとされる。アリストテレスの生物に関する研究の中でも動物に関する研究は秀でており、特に動物学の始原とされる。分類、生殖、発生、その他の分野において先駆的な研究を行い、その生命論や発生論は17世紀や18世紀の学者にまで影響を与えた。
生物学
57#10
現代生物学は、アントニ・ファン・レーウェンフックが発明した顕微鏡の普及とともに発展した。科学者らによる精子・バクテリア・滴虫類、そして生命が持つ驚くべき奇妙さと多様性が次々と明らかにされた。ヤン・スワンメルダムの調査は昆虫学に対する関心を新たにし、顕微鏡を用いた解剖や標本用染色の技術を向上させた。
生物学
57#11
17世紀にロバート・フックが顕微鏡を用いた観察で細胞を発見し、18世紀のカール・フォン・リンネによる生物の系統的分類の発表を経て、チャールズ・ダーウィンの進化論やグレゴール・ヨハン・メンデルの遺伝子法則などが認められるに及び、それまでの博物学の一領域に過ぎなかった生物についての知識が、ひとつの学問分野を成り立たせるに充分にまで蓄積された事で成立した。19世紀前半には、細胞の中心組織が重要な役割を持つという認識が広がった。1838年と1839年、マティアス・ヤーコプ・シュライデンとテオドール・シュワンは、(1)有機体の基本単位は細胞であり、(2)個別の細胞がそれぞれ生きて、多くの否定的意見があったが(3)全ての細胞は分裂によって生じるという考えを促進する役割を果たした。1860年代には、ロベルト・レーマクとルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ヴィルヒョウの仕事によって細胞説として知られる上記3説は多くの支持を受けるようになった。
生物学
57#13
英語の biology はギリシア語の (bios、生命)に接尾語 (-logia、〜の学問)である。これは、K.F.ブルダッハ(1800年)、ゴットフリート・ラインホルト・トレフィラヌス(1802年)、ジャン=バティスト・ラマルク(1802年)らによって、それぞれ独立に用いられはじめ、広まることになった(→#「生物学」と「生命科学」)。
生物学
57#22
生物学のパラダイムを大きく変えたものには細胞の発見、進化の提唱、遺伝子の示唆、DNA の構造決定、セントラルドグマの否定、ゲノムプロジェクトの実現などがある。細胞の発見やゲノムプロジェクトは主に技術の進歩によってもたらされ、進化や遺伝子の発見は個人の深い洞察によるところが大きい。 17世紀に発明された顕微鏡による細胞の発見は、微生物の発見をはじめとして、動物と植物がいずれも同じ構造単位から成っていることを認識させ、動物学と植物学の上位分野として生物学を誕生させることになった。また自然発生説の否定によって、いかなる細胞も既存の細胞から生じることが示され、生命の起源という現在も未解明の大きな問題の提示につながっている。
生物学
57#24
1953年、ジェームズ・ワトソン、フランシス・クリックらが、X線回折の結果から、立体模型を用いた推論により遺伝物質 DNA の二重らせん構造を明らかにした。DNA構造の解明は、分子生物学の構造学派にとって最大の成功である。相補的な2本の分子鎖が逆向きにらせん状構造をとっているというモデルは、染色体分配による遺伝のメカニズムを見事に説明しており、その後の分子生物学を爆発的に発展させた。
生物学
57#25
DNAからRNAへの転写、RNAからタンパク質への翻訳、遺伝暗号などの解明により、セントラルドグマと呼ばれる「DNA→RNA→タンパク質」といった一方向の情報伝達がまるで教義のように思われた時期もあったが、これを裏切るかのように逆転写酵素やリボザイムといった発見も20世紀後半に相次いだ。
生物学
57#48
生物学から多くの影響を受けた分野に、理論社会学や社会思想がある。ダーウィンと同時代に生き、適者生存などの語の発案者でもあるハーバート・スペンサーや、エミール・デュルケームは、社会の変化、特に分業の発達と構成要素の多様化を生物進化になぞらえて考察する理論を打ちたてた。彼らの学問は社会学の中でも多く知られているが、スペンサーを除けば、生物学から影響を受ける量が多く、生物学への影響は限られている。また、生物をメタファーとして社会を説明する理論にはほかに、マーシャル・マクルーハンによるメディア論や梅棹忠夫による情報産業論など、広く知られたものが多くある。
生物学
57#53
Biology という語は、「生命」を意味するギリシャ語の βίος (bios) と「言葉・論」を意味する λόγος (logos) から造られた。K. F. ブルダッハ(1800年)、G. R. トレヴィラヌス(1802年)、ジャン=バティスト・ラマルク(1802年)らによって独立に用いられた。生物学が様々な生物を分類記載する博物学から発展したことからもわかるように、生物学には生物の多様性を理解しようとする伝統がある。
生物学
74#0
オーストリア共和国(オーストリアきょうわこく、German: Republik Österreich、バイエルン語: Republik Östareich)、通称、オーストリア</b>は、ヨーロッパに存在する連邦共和制国家である。首都は音楽の都といわれたウィーン。
オーストリア
74#1
ドイツの南方、中部ヨーロッパの内陸に位置し、西側はリヒテンシュタイン、スイスと、南はイタリアとスロベニア、東はハンガリーとスロバキア、北はドイツとチェコと隣接する。基本的には中欧とされるが、歴史的には西欧や東欧に分類されたこともある。
オーストリア
74#2
中欧に650年間ハプスブルク家の帝国として君臨し、第一次世界大戦まではイギリス、ドイツ、フランス、ロシアとならぶ欧州五大国(列強)の一角を占めていた。1918年、第一次世界大戦の敗戦と革命により1867年より続いたオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、共和制(第一共和国)となった。この時点で多民族国家だった旧帝国のうち、かつての支配民族のドイツ人が多数を占める地域におおむね版図が絞られた。1938年には同じ民族の国家であるナチス・ドイツに併合されたが、ドイツ敗戦後の1945年から1955年には連合国軍による分割占領の時代を経て、1955年の独立回復と永世中立国化により現在につづく体制となった。
オーストリア
74#5
正式名称は Republik Österreich (ドイツ語: レプブリーク・エースターライヒ)。
オーストリア
74#7
公式の英語表記は Republic of Austria。通称 Austria、形容詞は[Austrian]error: {{lang}}: text has italic markup (help)(オーストリアン)。日本語の表記は<b data-parsoid='{"dsr":[3922,3937,3,3]}'>オーストリア共和国。通称<b data-parsoid='{"dsr":[3940,3952,3,3]}'>オーストリア。漢字表記では<b data-parsoid='{"dsr":[3973,3982,3,3]}'>墺太利</b>または<b data-parsoid='{"dsr":[3985,3994,3,3]}'>澳地利(略表記:墺)と記される。ドイツ語の表記や発音(および下記オーストラリアとの混同回避)を考慮した日本語表記は<b data-parsoid='{"dsr":[4054,4064,3,3]}'>エースタ(ー)ライヒ、エスタ(ー)ライヒ、または舞台ドイツ語的表記による<b data-parsoid='{"dsr":[4130,4139,3,3]}'>エステ(ル)ライヒ</b>であり、専門書や各種サイトなどで使用されている。
オーストリア
74#9
狭義のオーストリアはかつてのオーストリア大公領であり、現在のオーストリアの領土のうちザルツブルク司教領やケルンテン地方、シュタイアーマルク地方、チロル地方は含まれない。オーストリア大公を名乗り同大公領を世襲してきたハプスブルク家、ハプスブルク=ロートリンゲン家を「オーストリア家」と呼ぶようになり、時代が下るにつれ、同家が統治する領地を漠然と「オーストリア」と呼ぶようになった。1804年のオーストリア帝国の成立に際しても「『オーストリア』の地理的範囲」は具体的に定義されなかった。1918年にオーストリア・ハンガリー帝国が解体され、ウィーンを首都にドイツ人が多数を占める地域で「国民国家オーストリア」が建設されるが、これは一地方の名前(あるいはオーストリア家というかつての王家の通称)を国名に使用したことになる。
オーストリア
74#13
オーストリアを統治してきたハプスブルク家およびハプスブルク=ロートリンゲン家は「オーストリア家(, , , )」とも呼ばれ、同家の成員はハプスブルク、ハプスブルク=ロートリンゲンの家名の代わりに「オーストリアの」を表す各国の言語で呼ばれる(e.g. Marie-Antoinette d'Autriche、マリー=アントワネット・ドートリシュ)。「オーストリア家」にはスペイン・ハプスブルク家も含まれることがあり、たとえば、フランスのルイ14世の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュ(スペイン語:マリア・テレサ・デ・アウストリア)はフランス語、スペイン語でそれぞれ「オーストリアの」とあって、スペイン・ハプスブルク家の王女である。日本語版Wikipediaでは、ハプスブルク家がドイツ系の家系であることから、記事名にはドイツ語の「フォン・エスターライヒ」(e.g. カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ)を使用している。
オーストリア
74#14
オーストリア(Austria)はしばしばオーストラリア(Australia)と間違われるが、オーストラリアはラテン語で「南の地」に由来し、オーストリアとは語源的にも無関係である。しかし、綴りや発音が似ているため、多くの国でオーストリアとオーストラリアが混同されることがある。
オーストリア
74#27
ローマ帝国以前の時代、現在オーストリアのある中央ヨーロッパの地域には様々なケルト人が住んでいた。やがて、ケルト人のノリクム王国はローマ帝国に併合され属州となった。ローマ帝国の衰退後、この地域はバヴァリア人、スラブ人、アヴァールの侵略を受けた[7]。スラブ系カランタニア族はアルプス山脈へ移住し、オーストリアの東部と中部を占める(658年 - 828年)を建国した。788年にシャルルマーニュがこの地域を征服し、植民を奨励してキリスト教を広めた[7]。東フランク王国の一部だった現在のオーストリア一帯の中心地域は976年にバーベンベルク家のリウトポルトに与えられ、オーストリア辺境伯領(marchia Orientalis)となった[8]。オーストリアの名称が初めて現れるのは996年でOstarrîchi(東の国)と記され、バーベンベルク辺境伯領を表した[8]。
オーストリア
74#28
10-11世紀に神聖ローマ帝国は帝国教会政策を採ったが、11世紀後半から12世紀にかけて叙任権闘争で皇帝は敗北した。
オーストリア
74#29
1156年、"Privilegium Minus"で知られる調停案により、オーストリアは公領に昇格した。1192年、バーベンベルク家はシュタイアーマルク公領を獲得する。1230年にフリードリヒ2世(在位:1230年 - 1246年)が即位。フリードリヒは近隣諸国にしばしば外征を行い、財政の悪化を重税でまかなった。神聖ローマ帝国フリードリヒ2世とも対立。1241年にモンゴル帝国がハンガリー王国に侵入(モヒの戦い)すると、その領土を奪い取った。1246年にライタ川の戦いでフリードリヒ2世が敗死したことによりバーベンベルク家は断絶[9] 。その結果、ボヘミア王オタカル2世がオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン各公領の支配権を獲得した[9] 。彼の支配は1278年のマルヒフェルトの戦いで神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に敗れて終わった[10]。
オーストリア
74#33
1349年フランスがドーフィネを獲得し、ハプスブルクとの緊張を深め後の教会大分裂に発展した。1358年にハプスブルクはオーストリア大公(オーストリア大公国)を称した。1363年、ハプスブルク家のオーストリア公ルドルフ4世は、マルガレーテを退位させて強引にチロル伯領を継承、以後チロル地方はハプスブルク家の統治下におかれた。「チロル伯領」の首都は、1418年にメラーノに移転し、ついでインスブルックに移った。14世紀から15世紀にかけて、このようにハプスブルクはオーストリア公領周辺領域を獲得してゆく。領土の一円化はコンスタンツ公会議でイタリア政策が頓挫してから急務であった。1438年にアルブレヒト2世が義父ジギスムントの後継に選ばれた。アルブレヒト2世自身の治世は1年に過ぎなかったが、これ以降、一例を除いて神聖ローマ皇帝はハプスブルク家が独占することになる。
オーストリア
74#36
1526年、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世が戦死した後、ボヘミア地域とオスマン帝国が占領していないハンガリーの残りの地域がオーストリアの支配下となった[14]。1529年、第一次ウィーン包囲。オスマン帝国のハンガリーへの拡大により、両帝国はしばしば戦火を交えるようになった(東方問題)。これは二国間紛争のようでいて、教皇庁にとっては旧東ローマ帝国を奪還するのに、フランスとハプスブルクとのいずれが尖兵にふさわしいかという政治問題でもあった。そこでカール5世はカトリックへ接近していった(宗教改革#シュマルカルデン戦争)。1556年、カール5世が退位してスペイン=ハプスブルク家が枝分かれした。このときにアントウェルペンの隣でネーデルラントがスペイン領となった。1565年、スペイン領フロリダでユグノー植民を殺す事件が起こった。そしてオランダ独立戦争に発展した。トルコとの(Langer Türkenkrieg)は三十年戦争に影響したが、いずれも東ローマの回収を伏線とする点ではオランダ独立戦争と並行・連動するものであった。1648年にヴェストファーレン条約が結ばれて、神聖ローマ帝国は形骸化しフランスが勢力を伸張した。
オーストリア
74#37
レオポルト1世 (1657年 - 1705年) の長期の治世では、1683年のウィーン包囲戦の勝利(指揮をしたのはポーランド王ヤン3世)[15] に続く一連の戦役(大トルコ戦争、1683年 - 1699年)の結果締結された1699年のカルロヴィッツ条約によりオーストリアはオスマン帝国領ハンガリー全土・トランシルヴァニア公国・スラヴォニアを獲得した。カール6世(1711年 - 1740年)は家系の断絶を恐れるあまりに先年に獲得した広大な領土の多くを手放してしまう(王領ハンガリー、en:Principality of Transylvania (1711–1867)、en:Kingdom of Slavonia)。カール6世は国事詔書を出して家領不分割とマリア・テレジアにハプスブルク家を相続させる(あまり価値のない)同意を諸国から得る見返りに領土と権威を明け渡してしまった。
オーストリア
74#39
カール6世の死後、諸国はマリア・テレジアの相続に異議を唱え、オーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)が起き、アーヘンの和約で終結。ウェストファリア条約で過酷な経済制裁を受けていたアントウェルペンが復興した(ベルギー#オーストリア再び)。プロイセン領となったシュレージエンを巡って再び七年戦争(1756年 - 1763年)が勃発。オーストリアに勝利したプロイセンの勃興により、オーストリア=プロシア二元主義が始まる。二元主義というのは政体というよりも宗教対立というべきもので、プロイセン経済はオランダのそれと共通してユグノーが台頭せしめたのである。オーストリアはプロイセン、ロシアとともに第1回および第3回のポーランド分割(1772年と1795年)に加わった。
オーストリア
74#40
フランス革命が起こるとオーストリアはフランスと戦争になったが、幾多の会戦でナポレオンに敗退し、形骸化していた神聖ローマ帝国は1806年に消滅した。この2年前の[16] 1804年、オーストリア帝国が宣言されている。1814年、オーストリアは他の諸国とともにフランスへ侵攻してナポレオン戦争を終わらせた。1815年にウィーン会議が開催され、オーストリアはヨーロッパ大陸における四つの列強国の一つと認められた(ウィーン体制)。同年、オーストリアを盟主とするドイツ連邦がつくられる。1818年のアーヘン会議でザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルトがウィーン財界に列した。1822年にはハプスブルク家から彼を含むロスチャイルド5兄弟全員に男爵位が送られた。彼らにより現在のオーストリア北部鉄道が建設された。政治と連携したロスチャイルドをふくむ財界の力で、ウィーンからプラハ・ドレスデン・ベルリンを経由してハンブルクまでが鉄道で結ばれていった。
オーストリア
74#42
1867年のオーストリアとハンガリーの妥協(アウスグライヒ)により、フランツ・ヨーゼフ1世を君主に戴くオーストリア帝国とハンガリー王国の二重帝国が成立した[20]。オーストリア=ハンガリーはスラヴ人、ポーランド人、ウクライナ人、チェコ人、スロバキア人、セルビア人、クロアチア人、更にはイタリア人、ルーマニア人の大きなコミュニティまでもを支配する多民族帝国であった。
オーストリア
74#64
欧州経済共同体に対抗するために結成された欧州自由貿易連合には、1960年の結成時からメンバー国だったが、1995年の欧州連合加盟に伴い脱退した。
オーストリア
74#83
「領地はたくさんある。人口もたくさんある。しかし<b data-parsoid='{"dsr":[31092,31111,3,3]}'>オーストリア民族はいない。国家はない」とはオーストリアのジャーナリスト、ヘルムート・アンディクス(de:Hellmut Andics)がオーストリア帝国を評したものであるが、実際にいまのオーストリアの領土はかつての「ドイツ人の</b>神聖ローマ帝国」を構成する「上オーストリア」「下オーストリア」「ケルンテン」「ザルツブルク司教領」「チロル」などから構成されており、その統治者であったハプスブルク家は「ドイツ人の</b>神聖ローマ皇帝」を世襲してきた。そのためオーストリア民族という概念はなくオーストリア人という概念はきわめて新しい。
オーストリア
74#84
ドイツ語を母語とするオーストリア人は全人口の91.1%を占める。この割合はドイツ、リヒテンシュタインとほぼ同じである。血統的にはゲルマン系にスラヴ系、ラテン系、ハンガリー系、トルコ系などが入り混じっており雑多であるが、ゲルマン系言語であるドイツ語を母語とするため、オーストリア人は通常ゲルマン民族とみなされる。
オーストリア
74#85
オーストリア人はドイツ人に含まれるのか、という問題は戦後意識的に避けられてきたが、近年急速にクローズアップされている。元々オーストリアはプロイセン、バイエルン等と同じくドイツを構成する分邦のひとつであり(古くはバイエルンの一部であり、ドイツ人を支族別に分けるとオーストリア人はバイエルン族である。)、しかも12~19世紀の間、オーストリア大公家であるハプスブルク家がドイツ帝国(神聖ローマ帝国)の帝位やドイツ連邦議長国の座を独占していた。そのため、「ブランデンブルク辺境伯」の名のように前近代までは欧州の「周辺」地域として位置づけられてきた新興のプロイセンなどより、むしろオーストリアこそドイツ民族の本流であるという考え方が、20世紀前半までは残っていた。国籍論議が起こったモーツァルトの書簡には「私たちドイツ人は」「ドイツ人として私は」といった文言が多く用いられている。形骸化していたとはいえ神聖ローマ帝国が長年ドイツ諸邦の盟主だった歴史は無視できない。オーストリア=ハンガリー二重帝国の崩壊によって、オーストリアの国土が民族ドイツ人居住地域に限定されると、左右を問わずにドイツへの合併を求める声が高まり、第一次大戦敗戦直後は「ドイツ・オーストリア共和国」という国名を名乗ってさえいたし、国家の歌詞にはドイツ人の国という言葉が1930年代まで残っていた。しかし、この民族自決論を逆手に取ったオーストリア人ヒトラーの行為に対する反省から、戦後は「ドイツ人と異なるオーストリア人」という国民意識が誕生し、浸透した。特にヒトラーの生地、かつての大ドイツ帝国の中心地でありながら、合併後はかつてのアルザス・ロレーヌのように「遅れて加わったドイツ」扱いされた屈辱も大きかった。1945年のブリタニカ百科事典には、オーストリアをドイツから除外した小ドイツ主義のビスマルク体制の方が歴史的例外なのであってヒトラーの独墺合併は元の自然な形に戻したにすぎないという記述があり、連合国側にすら戦後の統一ドイツ維持を支持する見方があったことを伺わせる。しかし実際は両国民とも悪夢のようなナチス時代の記憶から分離のほうが望ましいと考えており、ドイツ側はさらにソヴィエト占領地区の分離が余儀なくされていた。こうして3つの国家(オーストリア、東ドイツ、西ドイツ)、2つの国民、1つの民族と呼ばれる時代が始まる。オーストリア側ではドイツ人と別個の国民であるの意識が育ち、さらにはエスニシティにおいてもドイツ民族とは異なるオーストリア民族であると自己規定する人も現れた。しかしながら、ドイツ統一、欧州連合加盟以降、ドイツ民族主義が再び急伸した。2000年から2007年にかけて、ドイツ民族主義者系の極右政党が連立与党に加わり、国際的に波紋を呼んだのもそうした風潮と関連している。
オーストリア
74#86
「ドイツ人」という言葉には、国家・国民以前に「ドイツ語を話す人」というニュアンスが強い。ゲルマン民族が西進しフランク王国を立てたのち、西部や南部でラテン語との同化を選択した勢力(フランス人、イタリア人、スペイン人の一部の先祖となる)には加わらず、元々のゲルマン語を守り続けてた東フランク人が「ドイッチュ」(古来は民衆を意味した。当初ラテン語が支配階層のみで使われたため)の名でドイツ人の先祖となったためである。その後、ドイツ語は英語やフランス語と違い、ほとんど他民族では母語化しなかったため、言語と民族概念とが不可分となっている。オーストリアでは「ドイッチェ~」で始まる市町村名が、東南部をはじめ数多く見られるが、これらの名称も今日となってはドイツ人の街と解釈するのかドイツ語の街と解釈するのかは微妙である。また、オーストリアを多民族国家として論じる場合、現在の版図では9割を占める最多数派の民族を“ドイツ人”と呼ばざるをえないという事情もある(ゲルマン人では曖昧すぎ、オーストリア人と呼んでしまうと、少数民族はオーストリア人ではないのかということになってしまう。これは、移民の歴史が古く、民族名とは異なる国号を採用した同国ならではのジレンマである)。1970年代におけるブルゲンラント州、ケルンテン州でのハンガリー系、スラブ系住民の比率調査では、もう一方の選択肢は「ドイツ人」だった。近年の民族主義的傾向には、こうした言語民族文化の再確認という側面が見られる反面、拡大EUにおける一等市民=ドイツ人として差別主義的に結束しようとする傾向も否めない。
オーストリア
74#89
ブルゲンラント州は1918年まではハンガリー王国側だったため、今日でもハンガリー系、クロアチア系が多い。ケルンテン州にはスロベニア系も居住している。両州の少数民族は1970年代における調査によれば1~2%であるが、自己申告制であるため、実際にはドイツ人と申告した中にもかなりの外国系住民が含まれると思われる。そのため、標識や学校授業に第2言語を取り入れている地域もある。
オーストリア
74#91
ドイツ語が公用語であり、ほとんどの住民が日常使っている言語でもある。ただし、日常の口語で使われているのは標準ドイツ語ではなく、ドイツ南部等と同じ上部ドイツ語(Oberdeutsch)系の方言(オーストリアドイツ語)である。この方言は、フォアアールベルク州で話されているもの(スイスドイツ語に近い)を除き、バイエルンと同じ区画に属するバイエルン・オーストリア語である。オーストリアでは、テレビ、ラジオの放送などでは標準ドイツ語が使われているが、独特の発音や言い回しが残っているため、ドイツで使われている標準ドイツ語とは異なる。標準ドイツ語では有声で発音されるsの音はオーストリアにおいては無声で発音されることが多い。
オーストリア
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東オーストリアの方言では
オーストリア
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南部のケルンテン州にはスロベニア人も居住し、Windisch(ドイツ語とスロベニア語の混声語)と呼ばれる方言も話されている。首都ウィーンの方言は「ヴィーナリッシュ(ウィーン訛り)」として知られ、かつてのオーストリア=ハンガリー帝国の領土だったハンガリー・チェコ・イタリアなどの諸国の言語の影響が残っていると言われている。
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